【2024/08/01】
旅をした2009年に主流だったモニタ解像度はXGA規格の1024×768ピクセルでアスペクト比4:3でした。
よって当時の画像も640*480ピクセル程度に切り出していました。
そして2024年現在、モニタ解像度はフルHD規格の1920×1080ピクセルでアスペクト比16:9が標準仕様となっています。
今や面積比で4倍強となってしまった画面には当時のままの画像は余りに小さく見にくい状況(実質1/4サイズ)となってしまいました。
よってFHD規格に合わせて1000×800ピクセルを基準とした切り出しを元データ(4M規格2304×1728ピクセル)から行い再編集しました。

尚、各場所のリンク先も時代の流れで(?)YahooマップからGoogleマップへ変更しました。
さらにこの16年間で各サイトへのリンク切れも多々発生していましたので出来る限りの修正をしていますが消滅してしまったサイトもありますのでご了承下さい。
それでは引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。





坂本龍馬を巡る 維新探訪の旅 その2

本当は宿泊したかった寺田屋。ついに拝観する事が出来た


【序章】

やっぱり存分に時間を謳歌するって大切なんだな。
昨年のいきなりの夏休みで思い切り時間を有効に使って以来、チャンスがあれば動いてみよう!とは思っていた。
だって同じ一日を使うにしても、ずっと残る一日なんてそうそう無いじゃない。
しかし判っていてもイザとなると面倒な事も事実だが・・・・。

前回当初は京都狙いで寺田屋に申し込みまでしたのだが、
・一泊2名以上
・禁酒/禁煙
にあえなく玉砕したものの、やっぱり”階段の刀傷を見てみたい!”との思いは徐々に強まっていった。

だから今回は前もって一番仕事量の少なそうな9月を狙って密かに計画を立てていた。
行き先はもちろん夏の京都♪

当然、前回の宿泊に対する心配もあったから、また事前に調べ直してみた。
「京都、宿泊、バイク」で検索。
口コミも含めてよさげだったのが京都東急ホテル
早速電話で確認する。

・バイク専用スペースがある地下駐車場があり宿泊者は無料。
・駐車場の予約が出来る。
・深夜0時〜朝6時まではシャッターを閉める。
・それ以外は警備員が居る。

京都市内のホテルは殆どが600円〜千円の駐車料金を取っている。
まぁ、土地代を考えれば仕方が無いのかもしれないが、この宿泊者無料のアドバンテージは大きい。
それよりも、バイク乗りとしては、シャッター付きの2輪専用スペースがある地下駐車場で警備員がいるならば、別途費用を負担してもいいくらいだ!

ここまで確認したら一旦宿泊問題は置いておき、具体的検討に入る。
前回同様、ランダムに検索を掛けて項目を洗い出してみる。

桂小五郎/武市半平太/佐久間象山/吉村寅太郎/坂本龍馬/中岡慎太郎/古高俊太郎などの寓居跡
坂本龍馬/中岡慎太郎/佐久間象山/大村益次郎/本間精一郎などの遭難碑
寺田屋/池田屋/近江屋/翠紅館/明保野亭などの建造物及び跡
薩摩藩/長州藩/土佐藩などの藩邸跡
坂本龍馬/中岡慎太郎/高杉普作/桂小五郎/久坂玄瑞などの墓
維新歴史館
など41箇所もの項目が挙がった。

今回は何と言っても、
・寺田屋の見学
・竜馬と中岡慎太郎の墓参り
である。

前回、高知県で散々っぱら墓巡りをしたにも関わらす、肝心な両名へのお参りは果たしていない。
両名共に脱藩の身であるからして故郷に埋葬の地が無いのは当たり前の事なのだが、
それでも何かしっくりこなかったのは「ニッポン人が100年後もニッポン人で居ちゅうがは皆おまんらの功績じゃきに!」と合掌できなかったからだと思う。
だからそれを叶えに行く訳さ。

さて、これらを地図に貼り付けていこう・・・・・・って、そうは簡単に行かない事はすぐに理解出来た。

例えば一般的に観光名所とは、特定の人物や逸話や建造物があって、その話題で盛り上がれるから成り立つ話。
逆にそれらの事象さえ掴めば場所の特定など造作もない事だ。

しかし京都ってさ・・・・・歴史ありすぎだよ!
考えてみれば桓武(かんむ)天皇(第50代天皇)が平安時代の幕開けとして平安京に遷都して以来だから・・・・1300年!?

1300年間もの時が育て上げた歴史に刻まれた神社仏閣・跡・蹟の中から、どうやって維新関係だけを見つけ出せって〜のよ!?

しばらく考えてみたものの諦めて、京都市産業観光局京都市観光協会にTEL。
私「(上記で)悩んだん訳ですが、わかり易いmapとかあります?」
市「さすがに時代毎には無いですねぇ〜・・・・でも関係しそうな資料を選んで送りますよ!」

大体さ、その対応で「ものの程度」ちゅ〜もんが判ったよ!
観光名所の場合は、その名所こそが自慢な訳だから、そりゃぁ熱心に語る訳だ。村興し的な感覚だね。
しかし・・・・市というか県(府)そのものが名所の集合体だとしたら・・・・・。
「オメー、10/1300年をどうやったら切り出せると思ってんのよ?」・・・・って誇らしげに言われたとしても納得してしまうわな・・・・・。

もちろんそんな言い方はしないし、対応してくれたお姉さんは可愛くコロコロと笑いながら教えてくれたですよ。
それどころか届いた資料の関係箇所に付箋張ったりコメント書き込んでくれたりする「一生懸命さ」に惚れてまうやろ〜!!ですわ。

まぁ、仕方が無い・・・・・
一つ一つ調べながら地図に書き込んでいくか・・・・。

しかし!あたしだって常に進歩してるのよ!

貫徹しながら地図に写して・・・・・
小さいから(面積がデカイから)結局は見にくくて・・・・・
なんてもうやらない!

これさえあれば楽できる!に乗ったわさ!

さらに模擬走行だってしちゃうぜ!

・拡縮自由だし
・データ持たなくていいし
・皆が共通で閲覧出来るし

別にあたしが偉い訳じゃないけど、
こんなサービスが無料なんだから嬉しい限りです。
(googleさん、yahooさん有難う!)

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注:(2024年8月)
yahooの模擬走行はサービス終了してますので
このmapは新規作成出来ませんでした。
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だからもういろいろと書かないで予定決めです!
(項目と場所の詳細は上記を見てね!)

こうしてみると京都府京都市のJR京都駅を中心に
・南北に20km
・東西に14km
の範囲に全てのポイントがすっぽりと収まっている。
拠点となるホテルはJR京都駅のすぐ近くなので三角形のほぼ中点だ。

ざっと見て最低でも丸2日は必要だな。
外周をバイクで巡って、中心部はまたレンタル自転車にするか!

って事は、
1日目:全時間行くだけ
(1泊目)
2日目:全時間有効
(2泊目)
3日目:全時間有効
(3泊目)
4日目:全時間帰るだけ
ってな感じで3泊4日だな!

時刻出発地到着地とそこまでの距離
9月23日(秋分の日:水)
9:00自宅500km
17:00 京都東急ホテル
9月24日(木) バイク移動 (走行距離約62km)
7:00ホテル5.2km
  長州藩士の墓
 長州藩士の墓5.8km
  薩摩屋敷址
 薩摩屋敷址200m
  お登勢の墓
 お登勢の墓1.1km
  材木小屋跡
 材木小屋跡400m
  寺田屋
10:30寺田屋17.1km
11:30 船中八策の記念碑
 昼食&渡月橋(200m先)まで散歩
13:00船中八策の記念碑6.1km
  河田小龍の墓
 河田小龍の墓11.4km
  岩倉具視幽栖旧宅
 岩倉具視幽栖旧宅1.7km
  池田屋事件殉難志士の墓
 池田屋事件殉難志士の墓6.8km
16:00 長州人首塚
 長州人首塚1.4km
  薩摩藩戦没者慰霊碑
 薩摩藩戦没者慰霊碑800m
  薩摩藩邸跡の碑
 薩摩藩邸跡の碑200m
  蛤御門
 蛤御門5.1km
18:00 ホテル
時刻出発地到着地とそこまでの距離
9月25日(金) レンタル自転車移動 (走行距離約31km)
7:00ホテル5.3km
  田中新兵衛遭難地
 田中新兵衛遭難地200m
  大久保利通旧宅跡
 大久保利通旧宅跡1.7km
  木戸孝允別宅
木戸孝允旧邸1
木戸孝允旧邸2
9:00木戸孝允別宅1.0km
  大村益次郎公遺跡
 大村益次郎公遺跡100m
  長州藩邸跡
10:00長州藩邸跡200m
  武市半平太寓居跡
佐久間象山寓居跡
吉村寅太郎寓居跡
 武市半平太寓居跡200m
  池田屋跡
 池田屋跡50m
  坂本龍馬寓居跡(酢屋)
11:00坂本龍馬寓居跡(酢屋)1.0km
  楢崎家跡
 楢崎家跡1.0km
  長州藩士無縁仏
 長州藩士無縁仏100m
  麻田時太郎墓
12:00麻田時太郎墓100m
  近江屋跡
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地碑
 近江屋跡100m
  土佐稲荷・岬神社
 土佐稲荷・岬神社100m
  土佐藩邸跡
13:00土佐藩邸跡100m
  本間精一郎遭難之地
古高俊太郎寓居跡
 古高俊太郎寓居跡100m
  中岡慎太郎寓居跡
 中岡慎太郎寓居跡2.1km
14:00 明保野亭
 明保野亭で”龍馬御前”を堪能!
15:00明保野亭1.2km
  円山公園
 円山公園1.0km
  霊山護国神社(以下の墓石)
坂本龍馬/中岡慎太郎
幾松/藤吉/桂小五郎
池田屋騒動殉難烈士
高杉晋作ら長州藩士
禁門の変殉難烈士ほか
 霊山護国神社200m
  翠紅館跡
霊山歴史館
17:00霊山歴史館1.0km
  司馬遼太郎の墓
 司馬遼太郎の墓400m
  京都国立博物館
18:00京都国立博物館2.8km
18:30 ホテル
9月26日(土)
9:00京都東急ホテル500km
17:00 自宅

具体的な日取りは・・・・夏はいろいろと行事があるのよね。
8月は目一杯の仕事量だし、9月の連休と10月の後半にはバンドのライブが入ってるし、10月の頭には「いちさん倶楽部全国ミーティング」があるし。

8月は動けないし、10月は夏休み取得期限切れなので9月。
第一案:9月9日(水)〜9月11日(土)
第二案:9月23日(水)〜9月26日(土)
を候補に挙げる。

高速代は、
第一案:15,800+1,600=17,400円
第二案:3,300+1,600=4,900円

う〜ん・・・二泊ぶん近く違うか・・・・。
でも翌週に全国ミーティングで長野へ行くけど体力持つかな・・・。

ま、頑張ってみるべぇ!!
で、9月23日(秋分の日:水)〜26(土)に決定!

念の為に確認の意味で歴訪時間の概算を出してみよう。

(ここで約一日没頭してみる・・・・その成果が→)

一日目は60km走るのでさすがに自転車では無理。
だから遠い場所とバイクの取り回しが楽な近くを混ぜてみた。(前回の教訓!)

岩倉上蔵町から比叡山までは数キロの距離なので、途中参拝でもしようかと計画。
しかし比叡山に行くには比叡山ドライブウェイなる有料道路を走らないとダメらしい。
二輪で1610円だと。なんか商魂を感じたのでやめた。

古来史跡や仏閣って国民のものじゃないのか?
道路を建設すればその回収は当然だけど、全国各地で地元民しか走らない高速道路に税金掛けるくらいなら、逆に全国から集まるこうした場所をもっと整備しろよ!>国!

ところで昼食時間に渡月橋まで行ってみたいのね。
京都は高校の修学旅行で一回だけ訪れたんだけど、何故か印象に残っているのがこの渡月橋だけなのよ・・・。

二日目は30km走るが、バイク、特にCBでは絶対に無理!ってな距離ばっかりだから自転車の方が有利。
自転車は時速10km/h程度で計算してみたからマッタリ時間なハズだけど、やっぱり探す時間がどの位掛かるか?が不明なのであくまでも計算上にしておいて、時間調整用に「司馬遼太郎の墓」と「京都国立博物館」を用意した。
博物館は一般入場時間が16時半までなので、特別展示をやっていたら入ってみようと思う。
入れなかったらそのままホテルに戻ればいいいだけだ。

と言う訳で、上のmapにルートを載せてみた。
拠点(ホテル)を中心に、青矢印が一日目、赤矢印が二日目だ。

何か・・・・今回は一発で決まったぞ!
前回は移動距離が半端じゃなかったから、その分楽ではある。
問題は気候と天気だけか・・・・まぁ、台風でも来ない限り大丈夫でしょう!

【2009年7月18日】

さて、ホテルの予約をしよう。
実はこの計画は今年の2月敢行に向けて一度練っていたのよね。
だけど大人には諸事情ってもんがある訳で・・・中止&延期してました。
だから事前調査は完璧!
インターネット予約画面で空室を確認していたから慌てず騒がず・・・・です。

再度予約画面を良く見るとコンフォートメンバーズなる案内がある。
読んでみると、
・割引料金で宿泊出来る。
・溜まったポイントで支払いが出来る。
・500円で入会できて年間費用はゼロ。
・昼までのチェックアウト延長可能。
とある。早速TEL。

私「インターネット予約割引よりも安く泊まれるんですか?」
H「メンバー様ですと、インターネット予約割引から更に一泊300円引きでご利用できます」
私「3泊のポイントは千円分くらいになると思うんですが即使えますか?」
H「清算後でしたらすぐに使えます」
私「では清算後にレストランで使う事は出来るんですね?」
H「はい」
私「入会する事で(支払いや書類提出等)何らかの義務が生じますか?」
H「何もありません。サービスの一環だと思って頂ければ!」

シングル正規料金は、一泊17,500円。
インターネット予約だと、一泊8,100円。
コンフォートメンバーズになると更に、一泊7,800円。

3泊だと入会金500円を払っても、
3*300−500=で400円のお得になる。
更に3泊の合計が23,400円になるから、チェックアウト後のポイントが1,170円分で千円単位で利用出来るとの事なので1,000円バックされる。
これをすぐにレストランの朝食に使えば一食分浮く訳だ。
よいね・・・・・で、すぐに登録後予約完了!

ここで大雑把な予算を算出しておこう。
高速代5,300円土日際ETC割り
宿泊代23,400円 
燃料代9,000円≒1100/15*120?
ペットボトル代7,500円≒50本?
食事代20,000円≒1000*6+5000*3?
お土産10,000円 
合計75,200円現金は半分程度か?
う〜ん・・・・やっぱ10万円は必要か・・・・。



さて、後は各地の追加調査と司馬遼太郎(京都関連)の読み返しだけだな。

【2009年9月23日(秋分の日)】

当然の事ながら「高速道路暫定1000円」に掛かるように計画した訳で。
祭日出発〜土曜帰還になる訳だ。

9時
出発

先週に水回りのアセンブリ交換をしたので不安なく出発する。
旅先のトラブルはゴメンだぜぃ!

10時半
京葉道路から3号線・東名に入ったところでハイビームインジケータが点灯。
急遽、海老名SAに寄って点検すると、ヘッドライトが点いていない。
(ヤベ、こりゃ完全に違法だ・・・・)

で、ヘッドライトを取り出してみると・・・・・またかよ・・・・・またサインハウスの製品かよ。

2年前と全く同じ理由で根元がグラグラしてるよ・・・・もうダメだこの製品は・・・・欠陥品だ。

それから2年間、この時に買った四輪用のスタンレーH4をバイクに常備していたが、本当に役に立っちまった。

(後記:今はそのままスタンレーを使っているが全く問題ない。3千円の四輪用のバルブが問題なくてその何倍もするバイク用製品が肝心な時に役に立たないなんて恥ずかしいと思えよ!>技術屋さんよ!)

14時半
上郷SA到着

今日は曇りで暑くもなく寒くもなく。いい季節です。
ただ上郷SA前後でパラッときましたがシールドを一回拭いた程度。

海老名SAから274km走って15Lだからリザーブが4Lとしてもまだ30kmは走れたんだな。
やっぱり”いちさん”は満タンで300km走ってくれるんだと再認識。

今日は京都入りだけだから、時間は問題ない。
しかし暗くなると老眼がモロに影響するのでやっぱり早めに到着したい。
一応バイク用の老眼鏡は用意しているんだけど、使いたくねぇ〜(泣)

早々に出発。

17時半
京都東急ホテル到着

京都東ICを降りてR1(国道1号線)を西へ8.3km進むと、いきなりR1が直角に南下するのだが、その角に京都東急ホテルがある。

地上の配車係りの誘導で地下駐車場に下りると警備員さんがダッシュで近づき「今日お泊りのバイクですね!」と声を掛けてくれた。
「こちらへどうぞ!」とまたダッシュでスペースの反対側へ。
何とも気もちの良い対応だ。

そこに用意してくれていたのは、入り口の反対側で角のスペース。
つまり、外部者からは一番見えにくい場所なのだ。
しかも予めポールを設けて駐車不可スペースにしてくれていた。

嬉しいじゃないですか!
お父さんの唯一の宝物の大切さを理解してくれてないと配慮出来ないわよね。
思わずこの陽気な警備員さんと話し込んじゃいましたよ。(もちろんご本人の承諾を得て掲載しております)

フロントマンも、素泊まりである事を承知の上で、夕食のお店マップだとか、付近の地図だとか、懇切丁寧だし。
この警備員さんのみならずホテル全体の気遣いというものが伝わってきました。

お勧めですよ!このホテル!

この日は近くの居酒屋で晩酌。
22時には就寝です。



ここで改めて、今回の記事の読み方のお願い。
前回のようにそれぞれのスポット毎に地図はリンクしていません。
何故なら京都に限っては「一つのmapの中にすべてが入ってしまう」から。
だからここをクリックして地図を別に表示してから、その地図にある左の項目を記事に該当する順番に確認してもらえればと思います。
そうすれば以下の記事の場所が一発でその地図上で判るという訳。



【9月24日】

7時
さぁ、「幕末史跡を巡る!京都偏」に許された時間は2日間。
朝から飛ばしますよ〜っ!

京都偏一発目は「長州藩士の墓」から。

京都駅から南東に約2kmの東福寺隣に、鳥羽・伏見の戦いで戦死した長州藩士のお墓がある。

シルバーウィークが明けた平日の朝7時に墓に向かうオヤジの姿は、ご主人を仕事に送り出したご近所の奥様達がヒソヒソ話をするに十分なのであろう。

まっ、昨年である程度は慣れてたけど、こと京都は、史跡と住宅が密接に絡んで存在しているので、まさに「自分の庭に不審人物あり」なのであろう。

気にせず、いきなりのこの石畳を登る。
いきなりだよ・・・・・。

どうも京都には長州藩士の墓があちこちにあるようで、京都市内におけるその当時の豊富な人員構成が伺える。

自分の知識では知り得る手立ての無い藩士ばかりであったが、
ま、スタートとしては「幕末に活躍した志士達」として参拝できたのでヨシとしよう。

しかし当然の事とはいえ、平日の朝っぱらから、こんな寂しい場所を徘徊している人間は一人として居ない様だ・・・・。


そこから約6km南下した伏見区の丹波橋駅近くに「薩摩藩伏見屋敷跡」がある。

寺田屋で襲撃されて材木小屋に逃げ込んだ竜馬は、おりょうの通報と三吉慎蔵の駆け込み(この時点で同時に襲撃を受けた三吉も重傷を負っていた)により身柄を確保された薩摩藩伏見屋敷。

この事件で西郷隆盛が伏見奉行を叩き潰しに行くと激怒し、もし捕り方が来た場合は薩摩藩を挙げてこれを迎え撃つと豪語した。

すでにこの時点で薩摩と土佐(というより雄藩の官位ではない代表者として)の信頼関係は確立されていたと言える。

やっぱりさぁ〜・・・。
朝8時の住宅街は間違いだった。

隣が伏見小学校と伏見中学校なもんだから、オヤジがカメラ持ってウロウロしているのはマズイよ・・・・。

登校中の児童の脇で壁だか石だかをいろいろな方向から写真に撮って、文字通り周りをウロついているのだから。

これはどう説明しても不審者だわなぁ・・・。

何でこんな思いしなきゃならないんだろう・・・・俺・・・・?

しかし、そこから200mほど丹波駅に近づいた処にある「お登勢の墓」探しでは、本当にもう止めようかと思ったよ。

先ず石碑でない墓石(ぼせき)なのでお寺を探すのだが、この地区の乳幼児を(託児所的に?)お寺が面倒を見ているようで、「このお寺かな?」と入ってみるとそこには幼児を連れた母親が自転車で来ていたりする。

こっちだって早く場所を知りたい訳で、地元の人に聞きたくて仕方が無い。
当然目が合う訳だが、その顔は真剣そのものだ。
完全に戦うお母さんの目になってる・・・・・。

よく通報されなかったと思うよ・・・・。
(まぁ、職質されても涙ながらに事情を訴えてやるけど・・・)

事前の調べで「松林院の何処かにある」事は判っていたのだが、これだけ寺だらけ・・・・と言うより寺院の集合体みたいな巨大区域・・・・の中で「松林院」を探し出すのが難儀なのだ。

見当を付けて近くの寺院のピンポンを押す。
大抵は朝の支度の忙しい奥様がお出になる。
だから人相の悪い大柄な男が目を合わせると、そのまま戦闘モードに入るので、
「おはようございます。観光の者ですが少々場所をお尋ねしてもよろしいですか?」
「寺田屋お登勢の墓参りに松林院を探しております〜うんぬん〜」
と口早に宣誓する。

段々とコツを掴んでくると、この一言でだいぶ目ヂカラ(!?)が緩むのだ。(俺は新人の営業マンか?)

3件目でやっと「松林院」の場所が判った。
大抵は柵がしてある横に格子戸があるのでもう勝手に開けて中に入るようだ。

しかしこの松林院、誰も住んでいなかった。
まったく無用心な・・・・ってか、何も盗られるものも無いのか?

仕方なく片っ端から墓石を確認していく。
この作業も昨年に続いてだいぶ慣れてきている。

2/3程周ったところで発見!
なるほど。観光者が多いのか、札が立っていてた。
顕花されているところを見ると、このシルバーウィークで訪れた観光客が居るのだろう。

”今のニッポンが有るのは竜馬のおかげ。その竜馬が奔走できたがはおまんのおかげじゃきに!”と、静かに手を合わせる。

「お登勢の墓」から伏見桃山駅に向かって1kmほど南下した処に今回の準目玉「寺田屋」があるのだが到着するも開示時間は10時から。
まだ1時間以上あったので場所を確認してから先に「材木小屋跡」に向かう事にした。

事前の調査では空き地になっていたのだが、犬の散歩途中であった住民に話を聞いてみた処、この一体がそうらしい事が判った。
(マップの「寺田屋騒動逃走現場」参照)

この黄色い部分がつい最近まで資材置き場だったのだそうだが昨年移転したとの事。
年々痕跡が消えていくのも寂しい限りだが、今現在生きている人間の生活が優先であるのは確かだ。

ここで朝メシを食ってない事に気がつき10時までコンビニに座り込んで朝食。
そしてガソリン補給をしにフラッと走る。
適当に走ってもナビがあるので安心だ!

9時50分
再び寺田屋に到着。

先ほど閉まっていた駐車場が開いていた。

女将さんなのだろうか?
比較的若い女性が掃除をしている。

右隣の神社のような処を掃除していたので「こちらは寺田屋さんと関係があるのですか?」と聞くと、不思議そうに「この庭ですか?」

なるほど・・・・庭だったのか・・・・。

で、その庭を見学する。





入り口は正面からではなく、
この庭の横から入るらしい。

庭を眺めていたら駐車場に入れたバイクを見て「バイクは前に置いてもらえますか?」と移動になる。
寺田屋と庭の間にて。(手前はもう道路)

10時
開館時間。

参観料400円を支払って靴を脱いでビニールの袋に入れて持ち歩く。

建て屋自体は敷地面積にして20坪くらいだろうか?
手前に2部屋と階段、そして奥に1部屋。狭い。

順路が2階からだったので、そのまま上がる。
6畳の部屋が3つ、それぞれが宿泊出来る施設だ。

道路側の2部屋は狭い廊下があって、ドラマなどよく見る「お猪口を片手に片肘を付いて下の往来を眺める情景」が浮かぶ。

諸説では負傷を追って逃走する際に「裏階段をジリジリと降り」とあるが、もしかしたらこの廊下から庭に出たのかもしれない?と勝手に空想を巡らせて楽しむ。



そして階段の奥にもう一部屋。
それが竜馬が襲撃された時に居た部屋だ。

本当に6畳あるのか?ってくらい狭い。
床の間があるだけさらに広いハズなのだが・・・。

もしかしたら梁の低さなのかもしれない。
現代住宅では240cmは当たり前に取るから、200cm程度では空間が狭く感じられるのだ。

現存する遺品の数々。
こんなに近くで拝見できるなんて嬉しい限りだ。

竜馬は稀にみる大男とされているが、5尺8寸≒176cmとされているので現在の身長からすればさほど大きくは無い。
尤も、当時の平均身長が155cm前後であった事を考えると確かに大男なのだろう。

これが刀刃を受けた時に使った短筒。

暴漢の胸を打ち抜いたという音を「ぐわぁん」と表現しているが、まさにこの狭い空間で消音もしない黒色火薬が破裂するには相応しい音かもしれない。

しかし襲われて尚、北辰一刀流の腕を使わず、かといって、刃(ヤイバ)をくぐりながら初めて弾を込め始める様は竜馬の描く「大きな変革に武力は無力」を暗示する性分なのかもしれない。

そもそも傷だらけで、どれが本物の刀傷なのか・・・。
よく判んないよ・・・・。

襲撃の際におりょうが入っていた風呂。

この位置関係からすると、おりょうが「湯気の流れに窓が開いていると気付いた」の窓は庭に位置し「裏通りにビッシリと捕史が見えた」とは違う。
もしかしたら庭は当時は通りになっていたのだろうか?

あっ!まてよ?
もし、こちらに向かって湯に浸かったとするならば窓から庭を通して通りが見える事になるよな?

つまり「窓のすぐ外に捕史の気配」ではなく窓から前方10mほど向こうに捕史がいた事になる。
それなら納得できるぞ!

だとしたら「慌てて風呂を飛び出し階段を駆け上がった」は、窓を閉めようとして「立ち上がったまま桶を飛び出しそのまま階段に直進した」となる訳だ。

その階段。

捕史に気付くと同時に全裸で駆け上がった様を「目にまばゆいほどに桃色に息づいている」と表現しているが、おりょうと三吉は緊急事態に遭遇してそれすら気が付かない様相であるのに対して竜馬だけが苦笑いを浮かべながら「とにかく何か着てくれ」と言える冷静さは大変なものだと感じる。

やはり知力のみならず武力においても他を圧倒できる自信が無いとこの余裕は生まれないのではないだろうか?

当時に「話し合い」の余地は無い。
瞬時に抜刀&殺戮が発生し、しかもそれが常道とされていたのだから。

最後の部屋にあった当時の情景。

なるほど。
先ほどの路地を「裏道」といっていた訳が判った。
バイクを置いた道は「メイン」の道だと思ってしまうが当時は道ではなくて単に船着場だった訳だ。

しかも三十石船が余裕で着岸している様からして川幅が相当広いぞ!?

この駐車場+道幅が全て船着き場だとしたらそれも納得できるな。
お土産に湯のみとお猪口を買う。

とまぁ、序盤のメインイベントの歴史を早くも堪能した。
歴史とは史実であるのは勿論なのだが、もしそれが複雑な事情により明確な史実とは言えない場合は、己の想像とその歴史に対する「歴史観という想い」が補えばよいと思っている。

自分はおりょうの入った風呂桶も裸体で駆け上がった階段も「これだったのか!」と感動したいし、例えそれがイメージであったとしても「こんな感じだったのか!」との感銘を持ちたい。

しかし「時代考証において誤りがある」と「恣意的に歴史を捏造する」とでは意味合いが全く異なる。
にも関わらす不思議なのは京都市の会見内容と寺田屋への扱いがちぐはぐな事。

もし1868年に鳥羽伏見の戦火で寺田屋が消失したことが事実ならば刀傷などは明白な偽りとなってしまう事になる。

またもし誰も読まない場所に小さな文字でその旨を記載してあると主張するなら、京都市観光業務にとって不名誉な事態として指導するハズではないのか?

どうも「たら・れば・かも」で現状を曖昧にせざるを得ない何かがあると感じざるを得ない。

高知の「土佐龍馬の生まれたまち記念館」でも述べたが、我々歴史を堪能したい観光者にとっては地元の軋轢などどうでもよい事だ。

ただ知りたいのは「これが真実なのか?真実であろうイメージを視覚化したものなのか?」をはっきりして欲しいだけで、例え後者であっても「じゃぁ観光するのは止めた」と帰る探訪者は居ない。

なぜならその歴史観に触れたくて自ら訪問しに行くのだから。
その監督役はやはり京都市だろう。市が引っ張らなくてどうする?

少なくとも寺田屋の存在に関する見解をもっと世間に広めるべきだし、営業している寺田屋の言い分に関する反応を示すべきだ。
これから歴史に興味を持つ子供らの為にも一刻も早い監督者としての京都市の立ち位置の明確化を望む。

11時半
北西に17km反転して嵯峨野を目指す。
京都の路地は一方通行が多いのだが、こんな事がすぐに出来るのがバイクの機動力だ。

R1を北上して四条通から桂川沿いを嵐山へ。
渡月橋は唯一の一般観光スポットとして寄る予定であった。
しかし近づくにつれて大変な人ごみになってくる。
修学旅行だ・・・・季節もバッチリだもんなぁ・・・・諦めよう。

高校生の時分に修学旅行で訪れたこの渡月橋付近で好きだったクラスの女子に渡そうと竹細工の櫛(クシ)を買ったっけなぁ〜・・・結局渡せなかったけど。(もう30年以上も前の話)

そんな事を思い出しながら橋と反対方向へ。
天龍寺付近で停車し駐輪スペースを探すがさすがに人通りが多く勝手に止めると怒られそう。

そこで出店のおばちゃんに「止められそうな場所ありませんか?」と聞くと「それならうちの駐車場に止めたらええわ!」と勧められた。

有り難い話だ。
こちらは迷惑しか掛けていないのに「お互い様やわ」と言う京人情が染みる。

おばちゃん。(京美人ですな!:ご本人の承諾を得て掲載しています)

天龍寺の門をくぐり、右手に三秀院・弘源寺・慈斎院と続き、その奥に松厳寺がある。

この松厳寺が管理する墓地の中に「船中八策の記念碑」がある。

入り口正面の一番奥にあった。

船中八策は、竜馬が後藤象二郎に対して、土佐藩主の山内容堂から幕府に大政奉還論を進言してもらうべく、藩船の夕顔丸の中で思案した指針内容である。

一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事
四策 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
五策 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
六策 海軍宜シク拡張スベキ事
七策 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守護セシムベキ事
八策 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事

要約すると、

1:政権を朝廷に返上する事
2:上下の議会を置き、議決は万人による政府機関によって行う事
3:公卿諸侯の他に優れた人材を広く起用し、無能な官人は排除する事
4:諸外国の現状に詳しい知識人を採用し、万国に通じる憲法を制定する事
5:現在の不平等条約を破棄し、諸外国と新たな平等条約を締結する事
6:海軍の軍事力を増強する事
7:政府直属の護衛団を設けて天皇及び御所の護衛を行う事
8:金銀のレートを諸外国に合わせて物流を平等に行う事

となる。

今となっては当たり前の事ばかりである(軍事は別か?)が、当時は「そんな事より自分の命を心配しろ」「隣の刀に気をつけろ」であった為に、これらの項目がニッポンという国を救うのだという理解が出来なかった。

まだ「自分はニッポン人である」の意識が無かった時代である。

参拝後に京美人おばちゃんのお店で昼食。

心太(トコロテン)が美味しいと思えるなんて。
やっぱおじさんだな。

12時半
松厳寺から北東へ6kmほど行った処に「河田小龍の墓」がある。

立命館大学の隣に位置し、金閣寺まで5〜600mの処だ。

立命館大学の裏手の細い道を「ほんまかいな?」とバイクで進む。

バイクが駐輪したらもう車は通れない道幅に停車して等持院の中へ。

河田小龍の墓の場所を訪ねると、やはり若奥様はご存知ないようでしばらく引っ込む。

その後にお母様(?)が地図を片手にこられた。

墓石は立命館大学の敷地の中にあるそうなのだが、どうも話を聞いていると等持院ありきで大学が敷地を借りているらしい。

つまりは等持院の敷地の中に立命館大学があるようなのだ。

どうでもいいや・・・・どんだけ資産持っとるんじゃ!?

さすがに細い道の駐輪はダメとの事で境内の敷地に入れてもらう。

100台は駐車出来るよね?ってくらい広い境内の隅っこに無意識で止めてしまうあたしってば!とてもこの資産を回す程の度量は無いようです・・・・。

言われるままに大学に向かう。
裏手の門前にこんな案内塔が。

そのまっすぐ突き当たりに墓地があった。

大学校舎間のいわゆるキャンパス内を突き抜ける感じだ。

さすがに児童とは反応が違うが、やはりタオルを首に巻いてカメラを持った髭面のオジサンは、女子学生を振り向かせるに十分なようだ!
(その!マークは意味が違うと思う・・・・)

代々の隣で自分だけがちょこっと傾いてるのがつまらないボケにコケてるみたいで笑ってしまった。

幕末に掛けて全国を奔走した志士なら京都での死=墓石が京都にあるのは判るのだが何故画家が?
と調べてみたらどうもいろんな事に手を出していたらしい。

絵の修行で京都留学はあったらしいのだが、晩年になって琵琶湖疎水工事に立ち会い記録図誌の制作を行っていたそうだ。
へぇ〜・・・・それで京都にお墓が。

あれ?では代々って誰?
みんな連れて来ちゃったのかな?
ま、いいや。このへんで。

何にしても日本を代表する志士達の感覚と見識を広める役目を果した河田小龍の功績は大きい。

すぐ隣はもう立命館大学キャンパスだ。
楽し気な学生らはまさかこの学内が等持院の敷地内だとは知る由もないだろう。

13時半
等持院からさらに12km北東に向かった処に「岩倉具視幽栖旧宅」がある。

京都駅の真北に位置し、もう比叡山がすぐ隣だ。

公家と聞くと、ぼんくらのバカばっか・・・・ってなイメージだが岩倉具視に関してはあくびをしながら余生を送る時間の使い方が似合わない。

やはり情報を欲っする人種は貪欲で結論付ける事が上手いようだ。(だから誤解を受けたまま幽閉されるんだろうけど)

普通の人間なら5年間も外されたら腐ってしまうところを耐えた上でいつ世の中に浮上してもまともな見識でいられる努力を惜しまなかったところがすごい。

まぁ、何にしてもその後の廃藩置県・国策論・征韓反対などまともな政策と論者であった事が日本を大きく安定へと導いた事は大変な功績である。

蟄居時代に話を戻すと、武市半平太らの強硬論も影響した挙句にやむなく身を引く形になったのだが、その反面では竜馬や大久保利通といった有識者(というよりも見識者というべきか)の熱心な相談者が居た事が見逃せない。

当時の国民総意論からすれば尊王=倒幕=殺戮になる訳で、それらが間違いであった事は歴史が証明している。

よって個人的には竜馬に並ぶ有益な一国の牽引者であったと思っている。

顛末が病死(癌)であった事が何より喜ばしく安直な暗殺という無益、いや損益となる事態にならなかった事がせめてもだ。

「岩倉具視幽栖旧宅」から東へ岩倉駅を過ぎて1km程行った処に「池田屋事件殉難志士の墓」がある。

池田屋で起きた新撰組による長土藩の尊皇攘夷派を襲撃した事件の殉難志士の墓だ。

結果論は誰でも言えるし、自分だって研究家ではないので専門知識がある訳ではない。
だから本当に真の正義を語っているのか?と言われると実は判らないでいる。

ただ純粋に警備兵として新撰組が存在したとするならば、この事件は起こるべくして起こった事だし長州の焦りが生んだ悲劇と思える。

当時の力のバランスから言えば会津藩だって微妙な立ち位置にあるし偶発的な時間の組み合わせで発生してしまった事件なのだろうけどやはり町民(一般人)を巻き込んだ想定で「已む無し」とする意見ならば反対せざるを得ない。

てっきり三縁寺の中だと思い込んでバイクを離れる準備をして門の前まで行くと・・・。

なんだよ!門の外にあるんかい!

ちょっと可哀想くね?

三縁寺から7km西南に戻るかたちで御所のすぐ北側まで戻ると「長州人首塚」がある。

お墓に行くには門をくぐって寺務所(じむじょ:神社で言う社務所)を通らなければならない。

そこで「〜観光で来ました〜首塚をお参りさせて下さい〜」を伝えると親切に墓石まで案内してくれました。

まぁ、りっぱな境内だこと。
(手入れだけでも結構な金額掛かりそうな・・・)

上禅寺の墓地に埋葬されているこの墓は禁門の変で討死した長州志士が埋葬されている。

この中には土佐藩の那須俊平(オヤジの方!)も含まれている。
(全く元気オヤジだな・・・・尊敬するぜぃ!)

墓石に「長州人首塚」と掘られている・・・ってか、良く見える様に画像にコントラストを付けて初めて気が付いたのだが何かワイヤーみたいなものが巻きついてるぞ?

撮影した時は全く気が付かなかったな。
「長州人首塚」は全部で6枚撮影したのだが、その全てを拡大して調べてみたが同じ痕跡が見られたのでこりゃゴミではないわい。
何で現場で気が付かなかったんだろう?
ま、どうでもいい事だけど・・・・・。

何故か水を飲ませてあげたくなったのよね。
何か水を欲しがってる感じがしたのよね。

自分の先祖の墓だって自ら清めた事なんてないのにさ。

でも何か喜んでくれている感じがしたのよ。
この旅で後にも先にもここだけなのよね。
こんな事したの。
よく判らないけど・・・・。

で、バッチリ撮影してやったぜぃ!

14時半
上禅寺から南下する事1.5km。

広大な敷地の中にある相国寺の中に「薩摩藩戦没者慰霊碑」がある。
正確に言うと敷地外であったが。

京都産業大学付属高校側にある入り口から入ろうとすると「バイク進入禁止」と立て看板があった。
そうなの?と止まってると車が入っていく。
何で?

とにかくこの中の様なので入り口にバイクを駐輪して歩くことにした。
すると正面から警備員が走ってくる。
べ、別に悪い事してないし・・・と、こちらも歩みを止めるつもりはない。

「どちらへ行かれますか?」
「〜観光ですが〜薩摩藩戦没者慰霊碑へ〜」ともうすっかり慣れた口調で説明する。
「それならこの反対側から出た幼稚園脇にあります」
「え?中じゃないんですか?」

と全くの素人のフリをして話す・・・・ってか、全くの素人なんだからいいんじゃん!
すると本当に何も知らないヤツと認めてくれたようで対観光客の態度に変わる。

「それでしたら境内の中に駐輪場がありますから付いて来て下さい」
「ちなみに何でバイクだけが進入禁止なんですか?」
「いえ進入はいいんですが通り抜けが禁止なんですよ」

なるほど、この境内を通り抜けると通勤や通学でとても近道になるルートがあるらしい。
だから最初はその類だと思ったようだ。
観光客と判ると物腰が低くなるので助かるけど。

駐輪場に止めてまた場所を聞こうとすると「長州藩士の墓もここにありますよ」と嬉しい情報提供。

「えっ、本当ですか?それならそちらも行きたいです!」って事で教えてもらった墓地の中には今回のルートには無かった「長藩士戦亡霊塔」があった。

帰宅後に調べて判ったのだがここも禁門の変で討死した長州志士が埋葬されている。

先ほどの「長州人首塚」は長州藩士の戦死者約200名のうちの8名。
そしてここには約20名葬られているらしい。

つまりあと170人近くが別の場所に埋葬されているという事だ。
(明日予定の護国神社もある事は確か)

参拝後にフッと横を見ると・・・足利義政の墓?藤原定家の墓?
もう訳が判らん!

室町幕府の征夷大将軍やら鎌倉時代の公家やらが一緒くたに祭られてる?

やっぱ京都・・・・恐るべし!!

さて「薩摩藩戦没者慰霊碑」であるが、さきの警備員の説明によると「喜多川通り」という出入り口から出た処に京極幼稚園があってその隣にあるそうだ。

駐輪場から歩いていくと何故か境内にパトカーがいる。
しかも警察官が数名立っている。

確かに「どんだけ広いんじゃ!」ってくらい広いけど警察官は必要なのか?
よく判らんがそのまま通り過ぎる。

こりゃ驚いた。なんだ!このデカさは!
さっきの長州藩と余りに違いすぎるじゃん!

ここには禁門の変と鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩藩の志士72名が眠っているそうな。

お参りを済ませて次の「薩摩藩邸跡の碑」に向かうのだが、広大な敷地を出た信号でここが御所の隣であった事に気が付いた。

つまり「薩摩藩邸跡の碑」はすぐそこでありそのR367沿いに駐輪出来るスペースがあるハズもないって事にも。

だからそのまま相国寺駐輪場に留めたまま徒歩で向かう事にした。

相国寺からR367に出て同志社大学の敷地脇を歩く。

地下鉄鳥丸線の今出川駅の前、同志社大学の入り口に「薩摩藩邸跡の碑」がある。

ここも学生が多く、また国道沿いなので人も車の多い。

やっぱカメラを構えたオジサンは特異な人種だ。



15時半
もうそろそろ西日が差し始めている。

このまま「蛤御門」まで歩いてみるか!
と御所に向かう。

御所の玉砂利を歩く。
広っ!

「鳥丸中立売」まで歩いて諦める。
理由は疲れちゃったからもう歩きたくない!

後から地図を見たら、そこから200mだったんだ。
ま、明日また自転車でここまで来るし。

もうやめた!って事で鳥丸今出川交差点まで戻り、角のコンビニで今日の晩飯と明日の朝食を大量に買い込む。
昨日みたいに居酒屋行くと高いから焼酎とビールも一緒に!



17時
ホテル到着。

という訳で一日目が終了。
予定を一時間以上も繰り上げて終えられたのはやはり事前の資料が大きかった。

明日は自転車でナビを持たない(もちろん地図も持ってない)ので、印刷した資料だけが頼り。

だが現場付近の地理を記載したその資料は飽きるほど見ているし、全く不安はないのだ!(そのデータが正しいならね)

2時間ほど日誌を纏めて22時就寝。

【9月25日(金)】

6時
自転車を借りにホテルから徒歩10分のところにある自転車屋さんに出発。
事前にホテルが自転車屋さんに連絡を入れて本日の予約を入れておいてくれたし、自転車屋さんも本当は9時〜17時なのだが6時〜19時でもOKしてくれていた。
全く有り難い話だ。

6時半
1日の使用料1500円を前払いしていざ!出発!

朝のR367を自転車でゆっくりと走る。
時間と共にやんわりと強さを増していく日差し。
夜を徹して冷えた空気が徐々に温度を上げていく。
通勤の人が歩道を歩き、多くの車が走り去る。
おそらく平日の日常光景なのだろうが、知らない土地を走る自分はやはり異邦人の感覚。
それが嬉しくもあり、この為に日常の仕事に従事しているんだよなぁ〜と感慨に浸る。

7時
蛤御門到着。

正式名称を「新在家御門」というこの門は天明の大火の折にそれまで開いた事のなかった(まるではまぐりのように固く閉じていた)この門が初めて開いたというので「蛤の御門」となったそうな。

また「禁門」は「禁裏の御門」の略称で長州藩兵が会津・桑名藩兵と衝突したのがこの「禁門」だったのだが一番の激戦だったのが「蛤の御門」付近であった事から「禁門の変」または「蛤御門の変」と呼ばれるようになった。

尊王に常軌し過ぎた余り、天皇に恋焦がれる余りに逆に天皇から疎まれた末の衝突であった。

親の後を泣きながら付いてくる「後追い」状態の我が子を親は疎ましく思ってしまったのだから虚しいとしか言いようがない。

あるいは愛人に母親を取られた子供が泣きながら親を自分に振り向かせようとしている姿に愛人の仲間がよってたかって子供を殴りつけたようなものである。(と思っているのは自分だけかもしれないが・・・)

ただ子供は子供でナイフを持って母親を拉致しようと画策したのだからそれはそれで問題ではある・・・。

門が西に向かってある為、朝は完全な逆光だった。
ちなみに左下の自転車が本日一日を共に行動してくれるレンタル自転車だ。

蛤御門をくぐって御所を時計回りに回った2つ目の角が「猿ヶ辻」である。

尊王攘夷派の若手公卿である姉小路公知がこの猿ヶ辻で薩摩藩の田中新兵衛らに襲われて絶命したとされる現場だ。

田中新兵衛は拘留されたが奉行所内で自決してしまい真相は謎のままである。

一説には関係がこじれていた薩藩に対する長藩の陥れとも言われているが、攘夷派である姉小路公が殺害された事でこの時期、京における薩藩の勢力が衰えた事は事実だ。

人斬り御三家の一人と言われた田中新兵衛が証拠を残す事など有り得ないと言われればその通りで、自決の理由は”藩士の面子”説には納得出来る処がある。

しかしまぁ、ここ(猿ヶ辻)は禁裏(皇居)の数メートル脇ある。
現在では御所の塀に取り付けられた監視カメラでさえ捉える事が出来るほどの距離だ。
他に山ほど警備兵が居たハズだが?と不思議に思えてならない。

猿ヶ辻に向かって左側に20m歩くと左手に「明治天皇誕生地碑」がある。

これも今回の予定にはなかったが、見つけてしまったので礼拝した。

明治政府は「船中八策」をモデルにした(と思っている!)五箇条を元に採用した「五箇条の御誓文」を発布。

翌年には首都を東京に遷都して江戸城を皇居と改称した。

さらに翌々年には廃藩置県を実施するなど、意欲的な改革を進める明治政府を圧倒的信仰心を背景に後押しした人物である。



石薬師御門を抜けて突き当たりを右、左と曲がって10m程の処に「大久保利通旧宅跡碑」がある。

実はこれが一番難儀すると思っていた。
モロに住宅街だし細い路地だし、石碑が無かったらどうにも見つけようがないからだ。

3件目あたりで適当に自転車を止めて、さて・・・・と、右を見ると、なんと!1m横に立っているではないか!

超ラッキー!
一発で見っけ!!

これだもの。
ボヤッとしてたら簡単に見過ごす自信があるわ。

御所の脇の歩道をゆっくり走る。

県187号と県32号の交差点を右に折れて2つ目の細い路地を左に折れると「木戸孝允別宅」がある。

桂小五郎から木戸孝允に変名した背景にはもちろん刺客から逃れる為もあったが、7歳で桂家の養子になりそれまでの旧姓の和田から桂に変わった。
木戸姓は藩主毛利敬親から賜ったもので36歳以降の姓である。

若き青年期を志士として駆け抜けた時分の姓が桂であったが故に明治政府での総裁局顧問以降の活躍時に名乗った「木戸孝允」よりも「桂小五郎」の方が知れ渡っているのである。

この別邸は今尚現存する貴重な文化財だ。

その左手には「木戸孝允旧邸跡」がある。

こちらは碑だけで面影はない。

こちらも同じ木戸邸(の敷地であった)内の松菊園ホテル前にある碑。

ちょうど修学旅行集団の出発時間らしく、この後ホテルからワラワラと子供達が出てきたので早々に退散する。

高瀬川は江戸時代に作られた人工運河だ。

1608年の方広寺大仏殿の再建工事を切っ掛けに水深わずか約30cmの浅い川を二条大橋から宇治川までの10kmを運輸する運河である。

大坂から三十石船で運ばれた資材は伏見港でこの十五石船に載せ替えて運ばれた。

長さ13メートル幅2メートルの底が平な浅瀬専門の舟で、15石(2.25トン)の積載が可能な船だった。

この別名「高瀬舟」は最盛時には200艘700人の稼働があったそうな。

「木戸孝允別宅」から500m南下した処に「大村益次郎公遺跡」がある。

正確には石碑であり、遺跡らしきものは見当たらないのだが・・・。

大村益次郎は長州藩の学者であり志士ではない。

しかし兵法・兵学に長けた才能を買われ改革派の牽引役になる。

そのスキルの高さが暗殺への時間を早めたとも言える。

そのわずか20m先に「桂小五郎寓居跡」がある。

木戸松子(きどまつこ)は桂小五郎の愛しき人で「幾松(いくまつ)」という芸妓をしていた。

その名をとった料亭「幾松」は寓居を改装したものだが、今尚有形文化財(建造物)として登録されている。

しかし当時の部屋の見学をするためには、ここで5,500円〜100,000円の昼食を取らなくてはならないらしい。

思わずバカじゃね〜の?って叫んでしまう。
庶民には近寄り難い場所の様です。

川を挟んでちょうどその反対側に「佐久間象山・大村益次郎遭難碑」がある。

何故ここに2人が並んで居るのか?
しかも何故こんなに立派なのか?
は不明。

まぁ「この地で受難に遭った&手厚く祭られている」という事で。

そこから100mほどぐるっと回り込んだ京都ホテルオークラ敷地内に「長州藩邸跡」がある。

正面通りの大きな柱の裏側にあり、なんとも可哀想な扱いである。



それよりもっと可哀想な扱いを受けているのが「佐久間象山」。

ホテル前の県32号の交差点を渡り、一本目の狭い路地を左へ折れて突き当たると「佐久間象山寓居跡」がある。

この佐久間象山も志士ではない。

兵学者であり儒学者であるが、徳川慶喜に公武合体論と開国論を説いた事から尊皇攘夷派に暗殺される。

この情景・・・・もう情けなくって恥ずかしい。

「佐久間象山寓居跡」から約50m南下した処に「武市半平太寓居跡 」と「 吉村寅太郎寓居跡 」がある。

ここから300m南下した処に竜馬が住んでいた事を考えると、土佐から上京した主要な人間たちがこんな近くに住んでいたなんて感慨深い。

でもせめて”ちりめん洋服”よりも寅太郎の方が目立っていいんでないかい?

まぁ、説明表記してくれているだけ有難いのか。

ところで京都では全てが「吉村寅太郎」となっている。

故郷の高知県では全てが「吉村虎太郎」であって、実は自分も違和感があったものの、むしろこちらが正しいと覚えたので逆に混乱。

石碑建立の際の担当者の感覚か?

8時

「武市半平太寓居跡 」からわずか100mの処に昨日訪れた三縁寺(の前!)に祭られている池田屋事件殉難志士らが斬り合いになった現場である「池田屋跡」がある。

スケジュールより2時間も前倒して動けているのは、全ての位置が一発で探せている事が大きな要因。
つくづくすごいぞ!>google

ところが逆にまだ通勤時間帯だったもんだから、三条駅から京都市役所に通ずる三条通りは通勤の人で一杯。

人通りが切れるのを待っては撮影するためちょっと時間を有する。

「このオヤジはこんな通路で何をしてるんだ?」
とみんな目を合わせないように(?)チラチラと撮影してる石碑を見ていく。

地元民にとっては池田屋なんて日常の光景だろうし「何を今更」なんだろうなぁ。

こっちはこれが目的で休暇を取って来ているんだけどね。

その三条道りを跨いだ50m先に今回の準目玉パート2!である「坂本龍馬寓居跡(酢屋)」がある。

酢屋はお酢の店である。
ウソ!材木商です。

6代目酢屋嘉兵衛がこの2階に匿ってくれた事から定宿(というか住まい)として使っていた。
後に海援隊の屯所として重要な拠点になる。

現在の前の道幅は4m程度だが、もし当時も同じ程度だとしたら、ここに捕縛目的で百人も押し寄せたのだから、確かにもう逃げ場はない感じだ。

2階がギャラリーになっているとの事だったので拝見したかったのだが、予定の時間を大幅に前倒ししてしまっているのでまだ開いていなかった。

1階は現在は竹細工屋との事だったのでお土産が欲しかったな。
残念。

「坂本龍馬寓居跡」から三条通りを西に1km行くと「楢崎家跡」がある。

河原町三条の交差点は地図では十字路になっているのだが、実際には左側は車は進入禁止になっていて3差路状態だ。

商店街の中を道路が走っている感じで面白い。

途中から普通の道路に変わって、一つ目の信号が現れる。

その交差点が柳馬場通りで、左に入った40m程の処にある。

「この付近」というくらいだから正確な場所は不明なのかもしれない。

よく掃除されている証拠?
自分の姿が反射して見えにくくなってしまった!

さて、この旅で唯一撮影に失敗した史跡が「長州藩士無縁仏」である。

「楢崎家跡」から1km戻った中筋町の東北寺内に誠心院がある。
ここに「長州藩士無縁仏」があるとの事で、誠心院を訪ねた。

若奥様が迎えてくれたが、例によって知らないとの事で暫く待たされる。
その若奥様に「これだそうです」と案内され無条件に撮影したのだが、帰宅後の確認作業でどうにも他のサイト上の画像と違う事に気がつく。

・他の殆どの写真がこの写真と違う事
・この画像を拡大してみると「山口甚介一族之塔」と書いてある事

から若奥様の勘違いと思われる。
無縁仏なのであまり事前に墓石を確認して来なかったのが敗因か?
おそらく十数メートルの範囲にあったのだろうが、ま、仕方がない・・・・。

誠心院から200m程の処に「麻田時太郎墓」がある。

会津藩と土佐藩が分裂の危機に直面した原因を作った人物だ。

池田屋事件後の残党が料亭明保野に潜伏しているとの情報を得た新撰組と会津藩士は踏み込んだ時にたまたま居合わせた麻田時太郎を誤って負傷させてしまった。

この件で名乗りを上げなかった麻田時太郎に対して土佐藩が切腹を命じたものだから、この時に手を掛けた会津藩士の柴司も立場をなくし切腹してしまった。

時勢の狭間で揺れる藩間の権威と微妙な相互関係が生んだ悲劇である。

常楽寺というお寺だったのだが門が閉まっていた。

「門が閉まってりゃ、格子戸を開ければいい」が普通になってきた自分としてはうろつく事もなくガラっと開ける。
ブザーが鳴り出したが気にしない。
奥まで行ってピンポンと共に観光客の旨を説明する。
もう馴れたものだ。

神経質そうなおばさんが応対してくれたが「麻田時太郎がどんな人だか知ってて来てるの?」と聞かれたので(もちろん!飽きるまで話してあげましょうか?)と言わんばかりに持論を聞かせてあげる。

すると急にニコニコしだして丁寧に案内してくれた。
ここを訪れる観光客は多いそうだが、誰だか判らずに訪れる人も多く辟易しているのだそうだ。

まぁ、当人としては毎日の事だからそう思っても仕方がないのだろう。

9時

常楽寺から河原町通りに出て右に折れた処で今回の準目玉パート3である「近江屋跡」に到着する。

坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された場所だ。

竜馬は眉間を割られ、その場ではしばらく意識はあったものの「残念だった」と言い残して絶命。

中岡は後頭部を斬られ、他に十数か所を斬られながらも即死には至らなかった。
襲撃の翌日には起き上がり飯を食うも、やはり脳の損傷が激しく2日後に絶命したという。

歴史に「たられば」は無いと言うが、最後まで無用心が齎(もたら)した史実なのである。
それも全てひっくるめてが坂本龍馬なのだからどうしようもない。

この場面だけが「たられば」ならまだしも素性は生まれつきのものであり人生において「たられば」が通用したとするなら逆に坂本龍馬という人物が世に出る事は無かったであろう。

もったいない⇒ここまでよくやってくれた

と思いたいものだ。



事前の調査で「パチンコ屋」は潰れたと知ってたのだが、その後どうなったのか?は知らなかった。

ただ、パチンコ屋の時は相当に劣悪な扱いをされていた様なので、せめて表に向かって見える様であって欲しいと願っていた。

正直、驚いた。
柵と立看板と顕花と。
こんなに綺麗にしていてくれたとは。

ちょっと、いや、かなり嬉しくなってコンビニに入る。
ペットボトルを買いながらオーナーと話したい旨を伝える。

人相と図体からクレーマーと間違われるのは馴れているので(!!)”違う!違う!”と早口で趣旨を説明する。

最初は構えていたオーナーさんも事情を知ると雄弁になってくる。

サークルKの本社が理解を示してくれた事。
商工会が協力して綺麗にしてくれた事。
府や市に尚、働きかけている事。

例えば後ろの自販機を見て欲しい。
移動が無理ならとJTに掛け合って特注の化粧を施したそうだ。

顕花は以前までは生け花を供えていたのだが、毎日の見た目と責任の維持が容易では無く、それならと枯れない造花にした事など。

30分程話し込んでしまい、最後に写真を撮らせて欲しい旨を伝える。

「もちろんモザイク掛けますから」
に対して、
「それよりも個人レベルでの維持が難しい事を伝えたい。こうした記事によって市や府が少しでも考えくれる事を望む」
と、あえて顔出しOKとしてくれた。

本当に史跡の事を案じているのだなと感じた。
いちファンとして応援しますぞ!
サークルK本社もオーナーさんも!

有難う御座いました!

河原町通りを渡って裏路地を入ると「土佐稲荷・岬神社」がある。



入って左手に竜馬像がある。
ご覧の通り悲惨な状態だ。

入り口で掃除をしていたおばあさんと会話したが同様にとても憂いていた。

ただ帰宅後に歴史館で買った本の中にこの像の写真があったが同じ様な状態だった。

もしかしたら神社に祭られてから観光客によって破壊されたというよりも、土佐藩邸に祭れた頃から少しづつ時間を掛けてこうなったのかもしれない。

路地をそのまま50m抜けた木屋町通りの角に「土佐藩邸跡」がある。

鴨川の沿いに位置し、当時は風流な情景であった事だろう。



土佐藩邸前の木屋町通りを渡った処に、こんな看板が。

「このmapは駐車場内にて配布しています」
とあったので、隣の駐車場でもらってくる。

暫く眺めてみたが訪れたい箇所は全て計画の中に含まれていたので黙ってザックに仕舞い込む。

そのまま木屋町通りを南に80m程行った処に「本間精一郎遭難之地」がある。

越後の勤皇の志士ではあるが、実は何の働きもしていない。
というか身内に殺害された「なんだかなぁ〜」の人物である。

本間精一郎と清河八郎という2人が織り成す行動は冷静に判断出来る現代においては喜劇に思えてならない。

大企業の権力を直接施行出来ない独立コーディネーターが「君らはこうすべき」「俺を信じろ」「俺についてこい」と工作した挙句に信頼を失い、ひいては関係を清算される羽目になった・・・・というところか。

実際には疎まれて無理やり暗殺理由を付けられて仲間(田中新兵衛/岡田以蔵ら)に殺害されたのだから「ええ〜?」である。

知識と理屈は一級品でもそれを武器に自ら行動を起こさねば誰も耳を傾けない、というよい例であろう。

何の興味も無い人物だが何故か頭の隅っこに残るんだな。

木屋町通りをさらに南に100m程行った右手に「古高俊太郎寓居跡」がある。

近江出身の尊皇攘夷論者であるが実働隊ではなく、情報活動と武器調達に長けた長州方諜報部員といったところか。

池田屋事件直前に新撰組に捕縛され拷問の末に「京に火を放って天皇を長州へ」の企てを白状してしまう。
これが池田屋事件の発端である。

禁門の変の際に獄中で斬首される。

石碑には勤皇志士と記されているが維新に関わった人間を全て志士とするならその通りだが、自分の感覚では志士には当たらない。

志士を支える裏方の知能担当要員として捉えている。

知能担当は文武ではなく文のみという意味。
自分が考える志士の定義は、

・文武を会得している人物=志士の代表
・武だけであるがまっしぐらに生き抜いた人物=志士
・ある程度の権力を有しその権力で時勢を左右した人物=志士
・文だけで行動は起さず維新を裏方で支えた人物=維新に大きな功績を残した人物

となるかな?
まぁ、見解は万人相異なるといったところか。

そのまま河原町通りまで戻った右側に「中岡慎太郎寓居跡」がある。

先ほどの近江屋跡から50m南に位置する処だ。

土佐人が集まる寓居地からは一歩離れた場所だ。

探し回る事10分。
自転車でウロウロおじさんはヤバイ状態。

しかたなく近くの和菓子屋さんで教えてもらった。

これじゃ判んね〜よ!!(→)

シャッターは無いだろう・・・・!!

って思ったんだけど、もしかしたら結構安全な保守体制かもしんない?

10時

さて、これで御所から祇園四条までのゴシャっとした跡地巡りが終わった。
現在の時刻は10時、予定より3時間も前倒し出来てる!

実はここでスケジュール上の分岐点を作っておいた。
もしこの時点で13時を過ぎていたら「丸山公園」と「翠紅館跡」はパスして「護国神社」へ向かおうと。

という訳で、1.5km先の丸山公園に向かう事にする。
祇園四条通りを突き当たりの八坂神社まで走り右沿いに丸山公園に向かう。

丸山公園内の「京料理いそべ」の隣に「坂本龍馬・中岡慎太郎の像」がある。

もちろん公園内なので一発では見つからず、自転車を押して坂を登り下り・・・・。

久しぶりに・・・・デカッ!

但し何故ここに像があるのか?は不明。



丸山公園から500m南下した処に「翠紅館跡」がある。

元々は鎌倉時代に舞楽や遊興を楽しむ場として建立された施設だが、幕末には勤皇志士たちの会合の場として使われていた。

桂小五郎、坂本竜馬ら主要なメンバーが討幕に向けた密談を重ねた場である。

現在は立ち入れないようだ。
残念。

翠紅館から護国神社までの100mが地獄の坂道。
自転車をこいでは登れない程の急坂だ。

だから自転車を押しながら登っていると「来れるもんなら来いや!」と言われてる気がする。
負けるもんか!

ゼイゼイ言いながら自転車を脇に止める。
汗がボタボタと落ちて引かない。

んがっ!!

さぁ、今回の最大の目玉!!
いよいよ竜馬と慎太郎に会いに来ましたよ!!

境内に入ると意外に狭い敷地に大きな石碑がいくつも建っている。
これか?と見て回るも全然違う。

隣に何やら改札があるので行ってみると、どうもここからが神社への入り口らしく改札を通って中に入るらしい。

ありゃ、参拝料取るんだ・・・300円也。

改札を入ってすぐに墓石の一覧があった。

マジか・・・何!?この広さ!

無理!絶対無理!
頂上の木戸孝允まで無理!

まだ午前中なのに心が折れそうになる・・・。
だが登らない訳にも行くまいて。
仕方が無い・・・・京都編ではあまり無かった階段攻撃の始まり。

登り続けること5分、もうどうやっても汗が引かない。
こりゃ、ご老体には無理だろ!
何とかならなんもんかなぁ?

2人の墓に近づくと、先ず小ぶりな銅像があった。

そして!!

ついに坂本竜馬・中岡慎太郎の墓に到着!

思わず立ち尽くす。

去年の物足りなさから一年。

遂にこの瞬間がやってきたのだ。

一度後ずさりをして再度全体を確認する。

そして一人づつ静かに拝む。
竜馬から。

「おまんが故郷の土佐を訪れて足りなかったものを補いに来たぜよ!やっと会えて嬉しいやか!これまでの功績には感謝しゆうぜよ!ゆっくり休きとおせ!」
(土佐弁は知らんが要はこんな思いって事!)

「室戸岬も慎太郎館も貴方に会いたうて訪れちゅう!ようよう身近に感じられるがで!ゆっくりねとおせ!」

これだけと言えばこれだけ。
この為と言えばこの為。

誰も来ない事もあって30分程放心状態でたたずむ。

思えば自分は土佐の人間でも縁者でもないし酔心的な歴史ファンという訳でもない。

実際に会った事もないし、論じた事もない。
まして国の行く末など憂いた事もない。

なのに何だろう?
無性に心穏やかな自分に気付く。

一年越しにやっと安堵の手ごたえ。

何で?・・・・判らん・・・・。

墓地mapでいう処の竜馬・中岡の上に池田屋事変で殉死した長州藩士の墓がある。

「長藩士戦亡霊塔」に続く長州藩士の墓群だ。

おびただしい数に驚愕しながらも、きっとここに祭られているだけでも幸せなんだろうなぁ〜と感じる。

なんかスゲ〜階段がある。
完全に心を折られながらも登ってみる。

なんと!桂小五郎の墓だった。
あれ?もう頂上なの?

下で見た墓地mapは全墓石を記載しているのでバカデカい敷地に見えたのだ。

だが長州藩士の墓石の集約状態を見てもそれほど広い面積では無かったのだと気が付く。

隣には幾松が並んで葬られていた。

汗が止まらないので、2人の墓地の脇にベンチがあったので暫く休憩する。

きっと悲鳴を上げながら辿り着いた人々用なのであろう。

当然の事ながら降りるんだよね。

もう膝がガクガクです。

竜馬・中岡の墓まで戻って、その脇道を行くと「吉村寅太郎」の墓がある。

寅太郎と天誅組とが一緒に祭られている。
まぁ、総帥であったのだから当たり前なのかもしれないが。



その脇にベンチがあり、休憩できるようになっている。

京都市内が一望できる。
これは気持ちいいぞ!

自販機があって助かった・・・・!
お茶のペットボトルを買おうと150円を入れるが出てこない。
あれ?と見るとなんと!180円だった。

う〜ん・・・・このキツさは30円に相当するかもしれない・・・・・。

改札から護国寺を出て「霊山歴史館」に向かう。

さっき登ってきた坂もう見たくない・・・・。

この道路を渡った反対側に「霊山歴史館」がある。

霊山自体は維新の戦没者と共に第二次世界大戦の戦没者も多数祭られている。

つまり霊山は維新に限定した慰霊神社ではないのだが、この「霊山歴史館」は維新に関する資料だけのようだ。

館内は撮影禁止だったので画像はないが維新の歴史をパネルとVTRで紹介している。

また近江屋の最後を再現した模型があり、これが精巧にできていて興味深かったぞ!

特に竜馬の眉間を割った瞬間に暴漢(未だ不明)の左手が右手の刀を押している様がリアルに表現されている。

登ってきた坂とは反対にまた坂を登る。
もう完全に山一つ分は登ったよな。

頂上から。
正面の突き当りが護国寺。

頂上から今度は一気に400m下った処に「明保野亭」がある。

麻田時太郎が切腹に至った要因を作った現場だ。

また「明保野亭」は料亭と旅宿を兼ねており、多くの志士の会合の場としても利用された。
龍馬はここを常宿の一つとして寝泊りをしていた。

事前調査でメニューに「竜馬御前」とあるものだから、そりゃ食さない訳にはいくまい!
との事で、最初からスケジュールに入れていた。

「本日のお勧めは・・・・」を遮って「竜馬御前を下さい!」
(この為にここに来たんだから!)

豪華絢爛
耽美主義
八面玲瓏

スゲ〜な!
和の楽曲が静かに流れる中をゆっくりと料理が出てくるもんだから撮影の為に食べないでいたら冷めちゃったよ・・・・。

最後のフルーツまで食前酒が持たなかったし・・・。

湯葉が旨かったな。
結構ボリュームもありました。
3,465円也

この階段は地図上で下りだと思っていた。
登るのが面倒だったので、そのまま引き返す事に。

さて、ここまでで予定していた全工程が終了!
17時までにここまで来られなかったら2つ目の分岐スケジュールに進む予定だったがまだ12時じゃん!

当然「時間があったら」用に取って置いた「司馬遼太郎の墓」に向かう事にする。

明保野亭からぐるっと回って、先ほどの階段の頂上付近まで走る。
修学旅行生にもまれながら五条坂といわれる坂を一気にR1に向かって駆け下りると天王通妙寺がある。

あるといっても広大すぎてどこから入ればいいのか?さっぱり判らないので適当に自転車を止めて歩き出す。

なんか大きな受付があったので「司馬遼太郎の墓参りに来ました」と訪ねるとA4のコピーをくれた。

そこには司馬遼太郎の墓までの簡単な地図が書いてあった。
「有難う!」と言って向かうが・・・・何だよ!(→)
現在位置を左右逆に読んでいたようだ。

迷子になる事一時間。
ようやく、と言うか偶然に辿り着けた。

そもそもこの人が居なかったら自分はここまでハマっていなかっただろう。
きっと他の誰でもダメだったに違いない。

小説という読み物の流れが自分にとっても合っていて、他の感性ではダメなのだろう。

8冊全巻を読み返すこと20数年間で20数回。
毎年フッと読みたくなる小説なんて他に無いし。

有り難い事です。

こんなに楽しい思い出を作るきっかけを有難う!




余裕を残して国立博物館に向かう。
時間があるので何でも見てこよう!と到着すると、

※当館は9/7(月)〜10/9(金)まで「全館休館」いたします。※
※南門インフォメーション・ミュージアムショップ・カフェは全館休館期間中も営業いたします。※

ひぇ〜っ!国立博物館が一ヶ月も休館するってアリなのか?
稀に見る間の悪さかもしれない・・・・。

14時
護国寺で墓の清掃をしていたバイトのお兄さんに聞いていたのよね。
「お土産といったら何処?」
「やっぱ京都駅っすかね!」

で、京都駅に来た。
途中で三十三間堂があったりしたが、修学旅行のメチャ混みぶりに外周だけで終了!

駅地下にセンターみたいなものがあったので、あっちこっちにお土産。
結局ここで一番時間を使ってたりして・・・・・。

16時
ホテル到着。
荷物を降ろして自転車を返しに行く。
結局、10時間掛けて35kmを自転車で走破!

17時
コンビニで今日の晩メシと明日の朝食を調達してホテル到着!

でもその晩メシを放り投げたまま21時まで眠り込んでしまった。
晩メシ後、一時間ほど日誌を書いてもう終了。
明日は早く起きて、早く帰宅しよっと!

【9月26日(土)】

4時起床。
ホテルの地下駐車場のシャッターは6時まで開かないのでボ〜っと過ごす。

4時半
朝メシを食いながら出発準備。

段々と空が白んじてきて朝焼けに変わっていく。
もう朝は空気が冷たい。

5時半
チェックアウト。
そのまま地下駐車場へ。

おお・・・愛しのいちさん。

なんと!
警備の方が柵で囲ってくれていた!感激!

エンジンを暖機しながら荷物を積み込む。
地下に響く重低音のアイドリングが心地よい。

6時
警備員さんに声を掛けて出発。

R1を京都東ICへ。
朝のハイウェイは気持ちがいい!
空いていると逆にゆっくりと走りたくなる。

大型トレーラーに先導してもらいながら80km/hで巡行。
まったりとした帰路です。

15時
最後の地元給油で帰宅。


こうして4日間の旅が終わりました。
前後の2日は移動だけだから実質は2日間でしたが、そりゃぁ濃い2日間でした。

京都人は情に厚いというのは本当ですね。
途中で随分と助かる事ばかりでした。(一部戦闘モードから逃れたりしましたが・・・・)

また今回の最大の安心感といえば「京都東急ホテル」です。
バイクに対する安心感と信頼感はピカイチ。
京都へ観光の際は絶対にお勧めのホテルですよ!

これを書き終えたのは4日後。
370枚の写真の中から130枚を選んで掲載しました。

毎回同じ事を繰り返し言っていますが、旅の途中の出会いや、いちさん倶楽部メンバーとのメールのやりとり。
そして何よりお土産を抱えて無事に帰宅できた喜びは何ものにも変えがたい財産です。

知らないまま会話した人達、有難う!
いってらっしゃいと声を掛けてくれた知人・友人、有難う!
そして気持ちよく送り出してくれた家族へ、有難う!


★★★ワンポイント・アドバイス★★★
今回も9月末とはいえ夏場だったのでペットボトルが命の水となりました。(合計で30本以上の消費)
また盆地特有の暑さに加え急坂や階段により汗が引きません。常に携帯する水とタオルの準備を忘れずに!


総走行距離:1196.8km
燃料消費量:69.96L
燃料消費率:17.10km/L


食費・お土産を除いた費用
高速道路(往復)4,900円
京都東急ホテル3泊23,400円
入館料1,200円
ガソリン代11,188円
合計40,688円


おしまい!