【2024/08/01】 旅をした2009年に主流だったモニタ解像度はXGA規格の1024×768ピクセルでアスペクト比4:3でした。 よって当時の画像も640*480ピクセル程度に切り出していました。 そして2024年現在、モニタ解像度はフルHD規格の1920×1080ピクセルでアスペクト比16:9が標準仕様となっています。 今や面積比で4倍強となってしまった画面には当時のままの画像は余りに小さく見にくい状況(実質1/4サイズ)となってしまいました。 よってFHD規格に合わせて1000×800ピクセルを基準とした切り出しを元データ(4M規格2304×1728ピクセル)から行い再編集しました。
尚、各場所のリンク先も時代の流れで(?)YahooマップからGoogleマップへ変更しました。
【序章】
やっぱり存分に時間を謳歌するって大切なんだな。
前回当初は京都狙いで寺田屋に申し込みまでしたのだが、
だから今回は前もって一番仕事量の少なそうな9月を狙って密かに計画を立てていた。
当然、前回の宿泊に対する心配もあったから、また事前に調べ直してみた。
・バイク専用スペースがある地下駐車場があり宿泊者は無料。
京都市内のホテルは殆どが600円〜千円の駐車料金を取っている。
ここまで確認したら一旦宿泊問題は置いておき、具体的検討に入る。
桂小五郎/武市半平太/佐久間象山/吉村寅太郎/坂本龍馬/中岡慎太郎/古高俊太郎などの寓居跡
今回は何と言っても、
前回、高知県で散々っぱら墓巡りをしたにも関わらす、肝心な両名へのお参りは果たしていない。 さて、これらを地図に貼り付けていこう・・・・・・って、そうは簡単に行かない事はすぐに理解出来た。
例えば一般的に観光名所とは、特定の人物や逸話や建造物があって、その話題で盛り上がれるから成り立つ話。
しかし京都ってさ・・・・・歴史ありすぎだよ! 1300年間もの時が育て上げた歴史に刻まれた神社仏閣・跡・蹟の中から、どうやって維新関係だけを見つけ出せって〜のよ!?
しばらく考えてみたものの諦めて、京都市産業観光局と京都市観光協会にTEL。
大体さ、その対応で「ものの程度」ちゅ〜もんが判ったよ!
もちろんそんな言い方はしないし、対応してくれたお姉さんは可愛くコロコロと笑いながら教えてくれたですよ。
まぁ、仕方が無い・・・・・ しかし!あたしだって常に進歩してるのよ!
貫徹しながら地図に写して・・・・・ これさえあれば楽できる!に乗ったわさ! さらに模擬走行だってしちゃうぜ!
・拡縮自由だし
別にあたしが偉い訳じゃないけど、
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だからもういろいろと書かないで予定決めです!
こうしてみると京都府京都市のJR京都駅を中心に
ざっと見て最低でも丸2日は必要だな。
って事は、
具体的な日取りは・・・・夏はいろいろと行事があるのよね。
8月は動けないし、10月は夏休み取得期限切れなので9月。
高速代は、
う〜ん・・・二泊ぶん近く違うか・・・・。
ま、頑張ってみるべぇ!! 念の為に確認の意味で歴訪時間の概算を出してみよう。 (ここで約一日没頭してみる・・・・その成果が→)
一日目は60km走るのでさすがに自転車では無理。
岩倉上蔵町から比叡山までは数キロの距離なので、途中参拝でもしようかと計画。
古来史跡や仏閣って国民のものじゃないのか?
ところで昼食時間に渡月橋まで行ってみたいのね。
二日目は30km走るが、バイク、特にCBでは絶対に無理!ってな距離ばっかりだから自転車の方が有利。
と言う訳で、上のmapにルートを載せてみた。
何か・・・・今回は一発で決まったぞ! 【2009年7月18日】
さて、ホテルの予約をしよう。
再度予約画面を良く見るとコンフォートメンバーズなる案内がある。
私「インターネット予約割引よりも安く泊まれるんですか?」
シングル正規料金は、一泊17,500円。
3泊だと入会金500円を払っても、
ここで大雑把な予算を算出しておこう。
さて、後は各地の追加調査と司馬遼太郎(京都関連)の読み返しだけだな。 【2009年9月23日(秋分の日)】
当然の事ながら「高速道路暫定1000円」に掛かるように計画した訳で。
9時
先週に水回りのアセンブリ交換をしたので不安なく出発する。
10時半 で、ヘッドライトを取り出してみると・・・・・またかよ・・・・・またサインハウスの製品かよ。 2年前と全く同じ理由で根元がグラグラしてるよ・・・・もうダメだこの製品は・・・・欠陥品だ。 それから2年間、この時に買った四輪用のスタンレーH4をバイクに常備していたが、本当に役に立っちまった。
(後記:今はそのままスタンレーを使っているが全く問題ない。3千円の四輪用のバルブが問題なくてその何倍もするバイク用製品が肝心な時に役に立たないなんて恥ずかしいと思えよ!>技術屋さんよ!)
今日は曇りで暑くもなく寒くもなく。いい季節です。
海老名SAから274km走って15Lだからリザーブが4Lとしてもまだ30kmは走れたんだな。
今日は京都入りだけだから、時間は問題ない。
早々に出発。
京都東ICを降りてR1(国道1号線)を西へ8.3km進むと、いきなりR1が直角に南下するのだが、その角に京都東急ホテルがある。
地上の配車係りの誘導で地下駐車場に下りると警備員さんがダッシュで近づき「今日お泊りのバイクですね!」と声を掛けてくれた。
そこに用意してくれていたのは、入り口の反対側で角のスペース。
嬉しいじゃないですか!
フロントマンも、素泊まりである事を承知の上で、夕食のお店マップだとか、付近の地図だとか、懇切丁寧だし。 お勧めですよ!このホテル!
この日は近くの居酒屋で晩酌。 ここで改めて、今回の記事の読み方のお願い。 前回のようにそれぞれのスポット毎に地図はリンクしていません。 何故なら京都に限っては「一つのmapの中にすべてが入ってしまう」から。 だからここをクリックして地図を別に表示してから、その地図にある左の項目を記事に該当する順番に確認してもらえればと思います。 そうすれば以下の記事の場所が一発でその地図上で判るという訳。
7時 京都偏一発目は「長州藩士の墓」から。 京都駅から南東に約2kmの東福寺隣に、鳥羽・伏見の戦いで戦死した長州藩士のお墓がある。 シルバーウィークが明けた平日の朝7時に墓に向かうオヤジの姿は、ご主人を仕事に送り出したご近所の奥様達がヒソヒソ話をするに十分なのであろう。 まっ、昨年である程度は慣れてたけど、こと京都は、史跡と住宅が密接に絡んで存在しているので、まさに「自分の庭に不審人物あり」なのであろう。
気にせず、いきなりのこの石畳を登る。
自分の知識では知り得る手立ての無い藩士ばかりであったが、
しかし当然の事とはいえ、平日の朝っぱらから、こんな寂しい場所を徘徊している人間は一人として居ない様だ・・・・。
寺田屋で襲撃されて材木小屋に逃げ込んだ竜馬は、おりょうの通報と三吉慎蔵の駆け込み(この時点で同時に襲撃を受けた三吉も重傷を負っていた)により身柄を確保された薩摩藩伏見屋敷。 この事件で西郷隆盛が伏見奉行を叩き潰しに行くと激怒し、もし捕り方が来た場合は薩摩藩を挙げてこれを迎え撃つと豪語した。
すでにこの時点で薩摩と土佐(というより雄藩の官位ではない代表者として)の信頼関係は確立されていたと言える。 隣が伏見小学校と伏見中学校なもんだから、オヤジがカメラ持ってウロウロしているのはマズイよ・・・・。 登校中の児童の脇で壁だか石だかをいろいろな方向から写真に撮って、文字通り周りをウロついているのだから。 これはどう説明しても不審者だわなぁ・・・。
何でこんな思いしなきゃならないんだろう・・・・俺・・・・? 先ず石碑でない墓石(ぼせき)なのでお寺を探すのだが、この地区の乳幼児を(託児所的に?)お寺が面倒を見ているようで、「このお寺かな?」と入ってみるとそこには幼児を連れた母親が自転車で来ていたりする。
こっちだって早く場所を知りたい訳で、地元の人に聞きたくて仕方が無い。
よく通報されなかったと思うよ・・・・。 事前の調べで「松林院の何処かにある」事は判っていたのだが、これだけ寺だらけ・・・・と言うより寺院の集合体みたいな巨大区域・・・・の中で「松林院」を探し出すのが難儀なのだ。
見当を付けて近くの寺院のピンポンを押す。 段々とコツを掴んでくると、この一言でだいぶ目ヂカラ(!?)が緩むのだ。(俺は新人の営業マンか?)
3件目でやっと「松林院」の場所が判った。
しかしこの松林院、誰も住んでいなかった。
仕方なく片っ端から墓石を確認していく。
2/3程周ったところで発見!
”今のニッポンが有るのは竜馬のおかげ。その竜馬が奔走できたがはおまんのおかげじゃきに!”と、静かに手を合わせる。
事前の調査では空き地になっていたのだが、犬の散歩途中であった住民に話を聞いてみた処、この一体がそうらしい事が判った。
この黄色い部分がつい最近まで資材置き場だったのだそうだが昨年移転したとの事。
ここで朝メシを食ってない事に気がつき10時までコンビニに座り込んで朝食。
先ほど閉まっていた駐車場が開いていた。
右隣の神社のような処を掃除していたので「こちらは寺田屋さんと関係があるのですか?」と聞くと、不思議そうに「この庭ですか?」 なるほど・・・・庭だったのか・・・・。
で、その庭を見学する。
参観料400円を支払って靴を脱いでビニールの袋に入れて持ち歩く。
建て屋自体は敷地面積にして20坪くらいだろうか?
順路が2階からだったので、そのまま上がる。 道路側の2部屋は狭い廊下があって、ドラマなどよく見る「お猪口を片手に片肘を付いて下の往来を眺める情景」が浮かぶ。
諸説では負傷を追って逃走する際に「裏階段をジリジリと降り」とあるが、もしかしたらこの廊下から庭に出たのかもしれない?と勝手に空想を巡らせて楽しむ。
もしかしたら梁の低さなのかもしれない。
竜馬は稀にみる大男とされているが、5尺8寸≒176cmとされているので現在の身長からすればさほど大きくは無い。 暴漢の胸を打ち抜いたという音を「ぐわぁん」と表現しているが、まさにこの狭い空間で消音もしない黒色火薬が破裂するには相応しい音かもしれない。
しかし襲われて尚、北辰一刀流の腕を使わず、かといって、刃(ヤイバ)をくぐりながら初めて弾を込め始める様は竜馬の描く「大きな変革に武力は無力」を暗示する性分なのかもしれない。
この位置関係からすると、おりょうが「湯気の流れに窓が開いていると気付いた」の窓は庭に位置し「裏通りにビッシリと捕史が見えた」とは違う。
あっ!まてよ?
つまり「窓のすぐ外に捕史の気配」ではなく窓から前方10mほど向こうに捕史がいた事になる。
だとしたら「慌てて風呂を飛び出し階段を駆け上がった」は、窓を閉めようとして「立ち上がったまま桶を飛び出しそのまま階段に直進した」となる訳だ。
捕史に気付くと同時に全裸で駆け上がった様を「目にまばゆいほどに桃色に息づいている」と表現しているが、おりょうと三吉は緊急事態に遭遇してそれすら気が付かない様相であるのに対して竜馬だけが苦笑いを浮かべながら「とにかく何か着てくれ」と言える冷静さは大変なものだと感じる。 やはり知力のみならず武力においても他を圧倒できる自信が無いとこの余裕は生まれないのではないだろうか?
当時に「話し合い」の余地は無い。
なるほど。
しかも三十石船が余裕で着岸している様からして川幅が相当広いぞ!?
とまぁ、序盤のメインイベントの歴史を早くも堪能した。 自分はおりょうの入った風呂桶も裸体で駆け上がった階段も「これだったのか!」と感動したいし、例えそれがイメージであったとしても「こんな感じだったのか!」との感銘を持ちたい。
しかし「時代考証において誤りがある」と「恣意的に歴史を捏造する」とでは意味合いが全く異なる。 もし1868年に鳥羽伏見の戦火で寺田屋が消失したことが事実ならば刀傷などは明白な偽りとなってしまう事になる。 またもし誰も読まない場所に小さな文字でその旨を記載してあると主張するなら、京都市観光業務にとって不名誉な事態として指導するハズではないのか? どうも「たら・れば・かも」で現状を曖昧にせざるを得ない何かがあると感じざるを得ない。 高知の「土佐龍馬の生まれたまち記念館」でも述べたが、我々歴史を堪能したい観光者にとっては地元の軋轢などどうでもよい事だ。 ただ知りたいのは「これが真実なのか?真実であろうイメージを視覚化したものなのか?」をはっきりして欲しいだけで、例え後者であっても「じゃぁ観光するのは止めた」と帰る探訪者は居ない。
なぜならその歴史観に触れたくて自ら訪問しに行くのだから。
少なくとも寺田屋の存在に関する見解をもっと世間に広めるべきだし、営業している寺田屋の言い分に関する反応を示すべきだ。
R1を北上して四条通から桂川沿いを嵐山へ。 高校生の時分に修学旅行で訪れたこの渡月橋付近で好きだったクラスの女子に渡そうと竹細工の櫛(クシ)を買ったっけなぁ〜・・・結局渡せなかったけど。(もう30年以上も前の話)
そんな事を思い出しながら橋と反対方向へ。
そこで出店のおばちゃんに「止められそうな場所ありませんか?」と聞くと「それならうちの駐車場に止めたらええわ!」と勧められた。
おばちゃん。(京美人ですな!:ご本人の承諾を得て掲載しています)
この松厳寺が管理する墓地の中に「船中八策の記念碑」がある。
入り口正面の一番奥にあった。
一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事 要約すると、
1:政権を朝廷に返上する事
となる。
まだ「自分はニッポン人である」の意識が無かった時代である。
心太(トコロテン)が美味しいと思えるなんて。 立命館大学の隣に位置し、金閣寺まで5〜600mの処だ。 立命館大学の裏手の細い道を「ほんまかいな?」とバイクで進む。 バイクが駐輪したらもう車は通れない道幅に停車して等持院の中へ。 河田小龍の墓の場所を訪ねると、やはり若奥様はご存知ないようでしばらく引っ込む。 その後にお母様(?)が地図を片手にこられた。 墓石は立命館大学の敷地の中にあるそうなのだが、どうも話を聞いていると等持院ありきで大学が敷地を借りているらしい。 つまりは等持院の敷地の中に立命館大学があるようなのだ。
どうでもいいや・・・・どんだけ資産持っとるんじゃ!?
100台は駐車出来るよね?ってくらい広い境内の隅っこに無意識で止めてしまうあたしってば!とてもこの資産を回す程の度量は無いようです・・・・。 そのまっすぐ突き当たりに墓地があった。 大学校舎間のいわゆるキャンパス内を突き抜ける感じだ。
さすがに児童とは反応が違うが、やはりタオルを首に巻いてカメラを持った髭面のオジサンは、女子学生を振り向かせるに十分なようだ!
幕末に掛けて全国を奔走した志士なら京都での死=墓石が京都にあるのは判るのだが何故画家が?
絵の修行で京都留学はあったらしいのだが、晩年になって琵琶湖疎水工事に立ち会い記録図誌の制作を行っていたそうだ。
あれ?では代々って誰?
何にしても日本を代表する志士達の感覚と見識を広める役目を果した河田小龍の功績は大きい。
京都駅の真北に位置し、もう比叡山がすぐ隣だ。 公家と聞くと、ぼんくらのバカばっか・・・・ってなイメージだが岩倉具視に関してはあくびをしながら余生を送る時間の使い方が似合わない。 やはり情報を欲っする人種は貪欲で結論付ける事が上手いようだ。(だから誤解を受けたまま幽閉されるんだろうけど) 普通の人間なら5年間も外されたら腐ってしまうところを耐えた上でいつ世の中に浮上してもまともな見識でいられる努力を惜しまなかったところがすごい。
まぁ、何にしてもその後の廃藩置県・国策論・征韓反対などまともな政策と論者であった事が日本を大きく安定へと導いた事は大変な功績である。
当時の国民総意論からすれば尊王=倒幕=殺戮になる訳で、それらが間違いであった事は歴史が証明している。 よって個人的には竜馬に並ぶ有益な一国の牽引者であったと思っている。
顛末が病死(癌)であった事が何より喜ばしく安直な暗殺という無益、いや損益となる事態にならなかった事がせめてもだ。
池田屋で起きた新撰組による長土藩の尊皇攘夷派を襲撃した事件の殉難志士の墓だ。
結果論は誰でも言えるし、自分だって研究家ではないので専門知識がある訳ではない。 ただ純粋に警備兵として新撰組が存在したとするならば、この事件は起こるべくして起こった事だし長州の焦りが生んだ悲劇と思える。
当時の力のバランスから言えば会津藩だって微妙な立ち位置にあるし偶発的な時間の組み合わせで発生してしまった事件なのだろうけどやはり町民(一般人)を巻き込んだ想定で「已む無し」とする意見ならば反対せざるを得ない。 なんだよ!門の外にあるんかい!
ちょっと可哀想くね?
お墓に行くには門をくぐって寺務所(じむじょ:神社で言う社務所)を通らなければならない。
そこで「〜観光で来ました〜首塚をお参りさせて下さい〜」を伝えると親切に墓石まで案内してくれました。
この中には土佐藩の那須俊平(オヤジの方!)も含まれている。
撮影した時は全く気が付かなかったな。 自分の先祖の墓だって自ら清めた事なんてないのにさ。
でも何か喜んでくれている感じがしたのよ。
で、バッチリ撮影してやったぜぃ!
広大な敷地の中にある相国寺の中に「薩摩藩戦没者慰霊碑」がある。
京都産業大学付属高校側にある入り口から入ろうとすると「バイク進入禁止」と立て看板があった。
とにかくこの中の様なので入り口にバイクを駐輪して歩くことにした。
「どちらへ行かれますか?」
と全くの素人のフリをして話す・・・・ってか、全くの素人なんだからいいんじゃん!
「それでしたら境内の中に駐輪場がありますから付いて来て下さい」
なるほど、この境内を通り抜けると通勤や通学でとても近道になるルートがあるらしい。 「えっ、本当ですか?それならそちらも行きたいです!」って事で教えてもらった墓地の中には今回のルートには無かった「長藩士戦亡霊塔」があった。 帰宅後に調べて判ったのだがここも禁門の変で討死した長州志士が埋葬されている。
先ほどの「長州人首塚」は長州藩士の戦死者約200名のうちの8名。
つまりあと170人近くが別の場所に埋葬されているという事だ。 室町幕府の征夷大将軍やら鎌倉時代の公家やらが一緒くたに祭られてる?
やっぱ京都・・・・恐るべし!!
駐輪場から歩いていくと何故か境内にパトカーがいる。
確かに「どんだけ広いんじゃ!」ってくらい広いけど警察官は必要なのか?
こりゃ驚いた。なんだ!このデカさは! ここには禁門の変と鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩藩の志士72名が眠っているそうな。 お参りを済ませて次の「薩摩藩邸跡の碑」に向かうのだが、広大な敷地を出た信号でここが御所の隣であった事に気が付いた。 つまり「薩摩藩邸跡の碑」はすぐそこでありそのR367沿いに駐輪出来るスペースがあるハズもないって事にも。
だからそのまま相国寺駐輪場に留めたまま徒歩で向かう事にした。
地下鉄鳥丸線の今出川駅の前、同志社大学の入り口に「薩摩藩邸跡の碑」がある。 ここも学生が多く、また国道沿いなので人も車の多い。
やっぱカメラを構えたオジサンは特異な人種だ。
このまま「蛤御門」まで歩いてみるか!
後から地図を見たら、そこから200mだったんだ。
もうやめた!って事で鳥丸今出川交差点まで戻り、角のコンビニで今日の晩飯と明日の朝食を大量に買い込む。
という訳で一日目が終了。 明日は自転車でナビを持たない(もちろん地図も持ってない)ので、印刷した資料だけが頼り。 だが現場付近の地理を記載したその資料は飽きるほど見ているし、全く不安はないのだ!(そのデータが正しいならね)
2時間ほど日誌を纏めて22時就寝。
6時
6時半
朝のR367を自転車でゆっくりと走る。 正式名称を「新在家御門」というこの門は天明の大火の折にそれまで開いた事のなかった(まるではまぐりのように固く閉じていた)この門が初めて開いたというので「蛤の御門」となったそうな。 また「禁門」は「禁裏の御門」の略称で長州藩兵が会津・桑名藩兵と衝突したのがこの「禁門」だったのだが一番の激戦だったのが「蛤の御門」付近であった事から「禁門の変」または「蛤御門の変」と呼ばれるようになった。 尊王に常軌し過ぎた余り、天皇に恋焦がれる余りに逆に天皇から疎まれた末の衝突であった。 親の後を泣きながら付いてくる「後追い」状態の我が子を親は疎ましく思ってしまったのだから虚しいとしか言いようがない。 あるいは愛人に母親を取られた子供が泣きながら親を自分に振り向かせようとしている姿に愛人の仲間がよってたかって子供を殴りつけたようなものである。(と思っているのは自分だけかもしれないが・・・) ただ子供は子供でナイフを持って母親を拉致しようと画策したのだからそれはそれで問題ではある・・・。
門が西に向かってある為、朝は完全な逆光だった。 尊王攘夷派の若手公卿である姉小路公知がこの猿ヶ辻で薩摩藩の田中新兵衛らに襲われて絶命したとされる現場だ。 田中新兵衛は拘留されたが奉行所内で自決してしまい真相は謎のままである。 一説には関係がこじれていた薩藩に対する長藩の陥れとも言われているが、攘夷派である姉小路公が殺害された事でこの時期、京における薩藩の勢力が衰えた事は事実だ。 人斬り御三家の一人と言われた田中新兵衛が証拠を残す事など有り得ないと言われればその通りで、自決の理由は”藩士の面子”説には納得出来る処がある。
しかしまぁ、ここ(猿ヶ辻)は禁裏(皇居)の数メートル脇ある。 これも今回の予定にはなかったが、見つけてしまったので礼拝した。 明治政府は「船中八策」をモデルにした(と思っている!)五箇条を元に採用した「五箇条の御誓文」を発布。 翌年には首都を東京に遷都して江戸城を皇居と改称した。
さらに翌々年には廃藩置県を実施するなど、意欲的な改革を進める明治政府を圧倒的信仰心を背景に後押しした人物である。
実はこれが一番難儀すると思っていた。 3件目あたりで適当に自転車を止めて、さて・・・・と、右を見ると、なんと!1m横に立っているではないか!
超ラッキー! 県187号と県32号の交差点を右に折れて2つ目の細い路地を左に折れると「木戸孝允別宅」がある。
桂小五郎から木戸孝允に変名した背景にはもちろん刺客から逃れる為もあったが、7歳で桂家の養子になりそれまでの旧姓の和田から桂に変わった。 若き青年期を志士として駆け抜けた時分の姓が桂であったが故に明治政府での総裁局顧問以降の活躍時に名乗った「木戸孝允」よりも「桂小五郎」の方が知れ渡っているのである。
この別邸は今尚現存する貴重な文化財だ。
こちらは碑だけで面影はない。
1608年の方広寺大仏殿の再建工事を切っ掛けに水深わずか約30cmの浅い川を二条大橋から宇治川までの10kmを運輸する運河である。
長さ13メートル幅2メートルの底が平な浅瀬専門の舟で、15石(2.25トン)の積載が可能な船だった。
この別名「高瀬舟」は最盛時には200艘700人の稼働があったそうな。
正確には石碑であり、遺跡らしきものは見当たらないのだが・・・。 大村益次郎は長州藩の学者であり志士ではない。 しかし兵法・兵学に長けた才能を買われ改革派の牽引役になる。
そのスキルの高さが暗殺への時間を早めたとも言える。
その名をとった料亭「幾松」は寓居を改装したものだが、今尚有形文化財(建造物)として登録されている。 しかし当時の部屋の見学をするためには、ここで5,500円〜100,000円の昼食を取らなくてはならないらしい。
思わずバカじゃね〜の?って叫んでしまう。
何故ここに2人が並んで居るのか?
まぁ「この地で受難に遭った&手厚く祭られている」という事で。
ホテル前の県32号の交差点を渡り、一本目の狭い路地を左へ折れて突き当たると「佐久間象山寓居跡」がある。 この佐久間象山も志士ではない。 兵学者であり儒学者であるが、徳川慶喜に公武合体論と開国論を説いた事から尊皇攘夷派に暗殺される。
この情景・・・・もう情けなくって恥ずかしい。
ここから300m南下した処に竜馬が住んでいた事を考えると、土佐から上京した主要な人間たちがこんな近くに住んでいたなんて感慨深い。
でもせめて”ちりめん洋服”よりも寅太郎の方が目立っていいんでないかい?
ところで京都では全てが「吉村寅太郎」となっている。 故郷の高知県では全てが「吉村虎太郎」であって、実は自分も違和感があったものの、むしろこちらが正しいと覚えたので逆に混乱。
石碑建立の際の担当者の感覚か?
「武市半平太寓居跡 」からわずか100mの処に昨日訪れた三縁寺(の前!)に祭られている池田屋事件殉難志士らが斬り合いになった現場である「池田屋跡」がある。
ところが逆にまだ通勤時間帯だったもんだから、三条駅から京都市役所に通ずる三条通りは通勤の人で一杯。 人通りが切れるのを待っては撮影するためちょっと時間を有する。
「このオヤジはこんな通路で何をしてるんだ?」 地元民にとっては池田屋なんて日常の光景だろうし「何を今更」なんだろうなぁ。
こっちはこれが目的で休暇を取って来ているんだけどね。
6代目酢屋嘉兵衛がこの2階に匿ってくれた事から定宿(というか住まい)として使っていた。 現在の前の道幅は4m程度だが、もし当時も同じ程度だとしたら、ここに捕縛目的で百人も押し寄せたのだから、確かにもう逃げ場はない感じだ。 2階がギャラリーになっているとの事だったので拝見したかったのだが、予定の時間を大幅に前倒ししてしまっているのでまだ開いていなかった。
1階は現在は竹細工屋との事だったのでお土産が欲しかったな。 河原町三条の交差点は地図では十字路になっているのだが、実際には左側は車は進入禁止になっていて3差路状態だ。 商店街の中を道路が走っている感じで面白い。 途中から普通の道路に変わって、一つ目の信号が現れる。 その交差点が柳馬場通りで、左に入った40m程の処にある。
「この付近」というくらいだから正確な場所は不明なのかもしれない。
「楢崎家跡」から1km戻った中筋町の東北寺内に誠心院がある。
若奥様が迎えてくれたが、例によって知らないとの事で暫く待たされる。
・他の殆どの写真がこの写真と違う事
から若奥様の勘違いと思われる。 会津藩と土佐藩が分裂の危機に直面した原因を作った人物だ。 池田屋事件後の残党が料亭明保野に潜伏しているとの情報を得た新撰組と会津藩士は踏み込んだ時にたまたま居合わせた麻田時太郎を誤って負傷させてしまった。 この件で名乗りを上げなかった麻田時太郎に対して土佐藩が切腹を命じたものだから、この時に手を掛けた会津藩士の柴司も立場をなくし切腹してしまった。
時勢の狭間で揺れる藩間の権威と微妙な相互関係が生んだ悲劇である。
「門が閉まってりゃ、格子戸を開ければいい」が普通になってきた自分としてはうろつく事もなくガラっと開ける。 神経質そうなおばさんが応対してくれたが「麻田時太郎がどんな人だか知ってて来てるの?」と聞かれたので(もちろん!飽きるまで話してあげましょうか?)と言わんばかりに持論を聞かせてあげる。
すると急にニコニコしだして丁寧に案内してくれた。
まぁ、当人としては毎日の事だからそう思っても仕方がないのだろう。
常楽寺から河原町通りに出て右に折れた処で今回の準目玉パート3である「近江屋跡」に到着する。 坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された場所だ。 竜馬は眉間を割られ、その場ではしばらく意識はあったものの「残念だった」と言い残して絶命。
中岡は後頭部を斬られ、他に十数か所を斬られながらも即死には至らなかった。
歴史に「たられば」は無いと言うが、最後まで無用心が齎(もたら)した史実なのである。 この場面だけが「たられば」ならまだしも素性は生まれつきのものであり人生において「たられば」が通用したとするなら逆に坂本龍馬という人物が世に出る事は無かったであろう。 もったいない⇒ここまでよくやってくれた
と思いたいものだ。
ただ、パチンコ屋の時は相当に劣悪な扱いをされていた様なので、せめて表に向かって見える様であって欲しいと願っていた。
正直、驚いた。
ちょっと、いや、かなり嬉しくなってコンビニに入る。
人相と図体からクレーマーと間違われるのは馴れているので(!!)”違う!違う!”と早口で趣旨を説明する。
サークルKの本社が理解を示してくれた事。
例えば後ろの自販機を見て欲しい。 顕花は以前までは生け花を供えていたのだが、毎日の見た目と責任の維持が容易では無く、それならと枯れない造花にした事など。 30分程話し込んでしまい、最後に写真を撮らせて欲しい旨を伝える。
「もちろんモザイク掛けますから」
本当に史跡の事を案じているのだなと感じた。
有難う御座いました!
入り口で掃除をしていたおばあさんと会話したが同様にとても憂いていた。 ただ帰宅後に歴史館で買った本の中にこの像の写真があったが同じ様な状態だった。
もしかしたら神社に祭られてから観光客によって破壊されたというよりも、土佐藩邸に祭れた頃から少しづつ時間を掛けてこうなったのかもしれない。
鴨川の沿いに位置し、当時は風流な情景であった事だろう。
「このmapは駐車場内にて配布しています」
暫く眺めてみたが訪れたい箇所は全て計画の中に含まれていたので黙ってザックに仕舞い込む。
越後の勤皇の志士ではあるが、実は何の働きもしていない。 本間精一郎と清河八郎という2人が織り成す行動は冷静に判断出来る現代においては喜劇に思えてならない。 大企業の権力を直接施行出来ない独立コーディネーターが「君らはこうすべき」「俺を信じろ」「俺についてこい」と工作した挙句に信頼を失い、ひいては関係を清算される羽目になった・・・・というところか。 実際には疎まれて無理やり暗殺理由を付けられて仲間(田中新兵衛/岡田以蔵ら)に殺害されたのだから「ええ〜?」である。 知識と理屈は一級品でもそれを武器に自ら行動を起こさねば誰も耳を傾けない、というよい例であろう。
何の興味も無い人物だが何故か頭の隅っこに残るんだな。
近江出身の尊皇攘夷論者であるが実働隊ではなく、情報活動と武器調達に長けた長州方諜報部員といったところか。
池田屋事件直前に新撰組に捕縛され拷問の末に「京に火を放って天皇を長州へ」の企てを白状してしまう。
禁門の変の際に獄中で斬首される。
志士を支える裏方の知能担当要員として捉えている。
知能担当は文武ではなく文のみという意味。
・文武を会得している人物=志士の代表
となるかな? 先ほどの近江屋跡から50m南に位置する処だ。
土佐人が集まる寓居地からは一歩離れた場所だ。
しかたなく近くの和菓子屋さんで教えてもらった。 これじゃ判んね〜よ!!(→) シャッターは無いだろう・・・・!!
って思ったんだけど、もしかしたら結構安全な保守体制かもしんない?
さて、これで御所から祇園四条までのゴシャっとした跡地巡りが終わった。
実はここでスケジュール上の分岐点を作っておいた。
という訳で、1.5km先の丸山公園に向かう事にする。 丸山公園内の「京料理いそべ」の隣に「坂本龍馬・中岡慎太郎の像」がある。 もちろん公園内なので一発では見つからず、自転車を押して坂を登り下り・・・・。 久しぶりに・・・・デカッ!
但し何故ここに像があるのか?は不明。
元々は鎌倉時代に舞楽や遊興を楽しむ場として建立された施設だが、幕末には勤皇志士たちの会合の場として使われていた。
桂小五郎、坂本竜馬ら主要なメンバーが討幕に向けた密談を重ねた場である。
だから自転車を押しながら登っていると「来れるもんなら来いや!」と言われてる気がする。
ゼイゼイ言いながら自転車を脇に止める。 んがっ!!
さぁ、今回の最大の目玉!! 隣に何やら改札があるので行ってみると、どうもここからが神社への入り口らしく改札を通って中に入るらしい。
ありゃ、参拝料取るんだ・・・300円也。
マジか・・・何!?この広さ!
無理!絶対無理! 2人の墓に近づくと、先ず小ぶりな銅像があった。
そして!!
思わず立ち尽くす。 去年の物足りなさから一年。
遂にこの瞬間がやってきたのだ。
「おまんが故郷の土佐を訪れて足りなかったものを補いに来たぜよ!やっと会えて嬉しいやか!これまでの功績には感謝しゆうぜよ!ゆっくり休きとおせ!」
これだけと言えばこれだけ。 誰も来ない事もあって30分程放心状態でたたずむ。 思えば自分は土佐の人間でも縁者でもないし酔心的な歴史ファンという訳でもない。
実際に会った事もないし、論じた事もない。
なのに何だろう? 一年越しにやっと安堵の手ごたえ。
何で?・・・・判らん・・・・。
下で見た墓地mapは全墓石を記載しているのでバカデカい敷地に見えたのだ。
だが長州藩士の墓石の集約状態を見てもそれほど広い面積では無かったのだと気が付く。
汗が止まらないので、2人の墓地の脇にベンチがあったので暫く休憩する。
きっと悲鳴を上げながら辿り着いた人々用なのであろう。
もう膝がガクガクです。
京都市内が一望できる。
う〜ん・・・・このキツさは30円に相当するかもしれない・・・・・。
さっき登ってきた坂もう見たくない・・・・。
つまり霊山は維新に限定した慰霊神社ではないのだが、この「霊山歴史館」は維新に関する資料だけのようだ。 館内は撮影禁止だったので画像はないが維新の歴史をパネルとVTRで紹介している。 また近江屋の最後を再現した模型があり、これが精巧にできていて興味深かったぞ!
特に竜馬の眉間を割った瞬間に暴漢(未だ不明)の左手が右手の刀を押している様がリアルに表現されている。
頂上から。 麻田時太郎が切腹に至った要因を作った現場だ。
また「明保野亭」は料亭と旅宿を兼ねており、多くの志士の会合の場としても利用された。
事前調査でメニューに「竜馬御前」とあるものだから、そりゃ食さない訳にはいくまい!
「本日のお勧めは・・・・」を遮って「竜馬御前を下さい!」 最後のフルーツまで食前酒が持たなかったし・・・。
湯葉が旨かったな。
この階段は地図上で下りだと思っていた。
さて、ここまでで予定していた全工程が終了!
明保野亭からぐるっと回って、先ほどの階段の頂上付近まで走る。 あるといっても広大すぎてどこから入ればいいのか?さっぱり判らないので適当に自転車を止めて歩き出す。 なんか大きな受付があったので「司馬遼太郎の墓参りに来ました」と訪ねるとA4のコピーをくれた。
そこには司馬遼太郎の墓までの簡単な地図が書いてあった。
迷子になる事一時間。 小説という読み物の流れが自分にとっても合っていて、他の感性ではダメなのだろう。
8冊全巻を読み返すこと20数年間で20数回。 有り難い事です。 こんなに楽しい思い出を作るきっかけを有難う!
※当館は9/7(月)〜10/9(金)まで「全館休館」いたします。※
ひぇ〜っ!国立博物館が一ヶ月も休館するってアリなのか?
14時
で、京都駅に来た。
駅地下にセンターみたいなものがあったので、あっちこっちにお土産。
16時
17時
でもその晩メシを放り投げたまま21時まで眠り込んでしまった。
4時起床。
4時半
段々と空が白んじてきて朝焼けに変わっていく。
5時半 おお・・・愛しのいちさん。
なんと!
エンジンを暖機しながら荷物を積み込む。
6時
R1を京都東ICへ。
大型トレーラーに先導してもらいながら80km/hで巡行。
15時
こうして4日間の旅が終わりました。
京都人は情に厚いというのは本当ですね。
また今回の最大の安心感といえば「京都東急ホテル」です。
これを書き終えたのは4日後。
毎回同じ事を繰り返し言っていますが、旅の途中の出会いや、いちさん倶楽部メンバーとのメールのやりとり。
知らないまま会話した人達、有難う!
★★★ワンポイント・アドバイス★★★
総走行距離:1196.8km
おしまい! |